小松伸六ノート⑳ 石坂洋次郎と小松伸六

石坂洋次郎と小松伸六

 

昭和30年から40年代、『青い山脈』をはじめとする青春小説が大ベストセラーになり、映画化され、多くの若い人たちに読まれ続けた石坂洋次郎(1900~1986)。石坂は、昭和8年三田文学』に「若い人」の連載をはじめて評判になり、11年「第1回三田文学賞」を受賞し、作家的地位を確立する。石坂文学の初期の作品について、「いずれも私小説的な発想の上につくられており、この作家の特色である自慰的要素のこい戯画化がこころみられている。しかし陰にこもるところがなく、かなりあけっぴろげなそしてつよい作品である。(中略)日本では珍しい感触型の作家といえるかもしれない」と書かれた一文は、『新潮日本文学小辞典』(昭和43年、新潮社)の「石坂洋次郎」の項からとったものだが、執筆者は小松伸六である。小松は、文学全集、そして文庫の「解説」を数多く残し、石坂文学を語り続けたひとりでもあった。

昭和41年4月、『石坂洋次郎文庫』全20巻が新潮社から企画され、42年10月に完結した。文庫という名が付いているが、いわゆる現在の小さな文庫ではなく、個人全集20巻である。小松は4冊に「解説」(未見)を寄せている。

・『石坂洋次郎文庫 第5巻/青い山脈 ; 山のかなたに』(昭和41年1月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第11巻/陽のあたる坂道 ; 乳母車』(昭和42年1月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第13巻/あじさいの歌、寒い朝』(昭和41年7月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第17巻/光る海 ; 辛抱づよく生きたS氏の像』(昭和41年1月刊)

石坂洋次郎文庫』刊行中の昭和41年11月、石坂洋次郎は第14回菊池寛賞を受賞する。その受賞パーティで、小松は石坂に初めて会ったという。

「石坂氏が昭和四十一年、「健全な常識に立ち、明快な作品を書き続けた功績」という理由で第十四回菊池寛賞をうけたとき、その受賞パーティが、新橋のあるホテルで行われた。私はそのとき、はじめて石坂さんにお目にかかったのであるが、この会で氏は津軽弁らしい、ちょっとなまりのある言葉で、受賞の感想をのべられていたのも印象的であった」(「解説」、『新潮日本文学27 石坂洋次郎集』)と書いている。その時小松は51歳、石坂は66歳のときであった。

その後小松伸六は、昭和43年4月に『カラー版日本文学全集30 石坂洋次郎』(河出書房新社)が刊行され「解説」を寄せる。同年9月には『現代日本の名作38 石坂洋次郎』(旺文社)に「解説」。翌44年12月には『新潮日本文学27 石坂洋次郎集』(新潮社)が刊行され、ここにも「解説」を書く。昭和54年11月刊の『新潮現代文学9 石坂洋次郎』(新潮社)にも「解説」を寄せている。小松が、文学全集に「解説」等を寄せた作家として一番多いと思われる。

なお、石坂洋二の文庫に寄せた小松の「解説」は、9冊確認できる。

石坂洋次郎あじさいの歌』(昭和37/1962年、新潮文庫

石坂洋次郎『河のほとりで』(昭和39/1964年、角川文庫)

石坂洋次郎『金の糸・銀の糸』(昭和42/1967年、角川文庫)

石坂洋次郎『風と樹と空と』(昭和43/1968年、角川文庫)

石坂洋次郎『光る海』(昭和44/1969年、新潮文庫

石坂洋次郎『陽のあたる坂道』(昭和46/1971年、講談社文庫)

石坂洋次郎寒い朝 他四篇』(昭和48/1973年、旺文社文庫

石坂洋次郎『花と果実』(昭和50/1975年、講談社文庫)

石坂洋次郎『颱風とざくろ』(下巻、昭和54/1979年、講談社文庫)

このうち、旺文社文庫の『寒い朝 他四篇』には、「人と文学」及び「作品の解説と鑑賞」と題して、20ページに及ぶ。興味深いのは、石坂と同郷の作家、太宰治葛西善蔵と対比して石坂の「人と文学」について書いていることである。なおこの文庫には、昭和37年、17歳のとき映画「寒い朝」に出演した、女優吉永小百合のエッセー「「寒い朝」の想い出」が収録されている。

また小松は、文庫の「解説」のなかで「私事」をよく語る人だが、『金の糸・銀の糸』では、この解説を書いたのは、「旅先のミュンヘンのウォーヌング(アパート)の屋根裏部屋」で書いたこと、『風と樹と空と』のなかでは、「わたくしは、ある私立大学の語学教師で、文学部に出講する。ほとんど女子学生である」と書き、『光る海』では、この小説が新聞に連載されたとき、「私の三女(当時立教女学院高二)のクラスでは、これをきりぬき」クラスメートにまわし読みをしていた話。『陽のあたる坂道』では、石坂の第14回菊池寛賞受賞のパーティのこと、『花と果実』では、舞台となった自由ケ丘の近くに住んでいる話など、実に興味深いことが記されている。

今日、石坂洋次郎の作品を書店で手にすることは難しくなったが、平成18年に『陽のあたる坂道』(角川文庫)が刊行され、昨年には、三浦雅士石坂洋次郎の逆襲』(講談社)出て、復活のきざしが見はじめた作家でもある。

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小松伸六ノート⑲  石川啄木をめぐる2人の女性

「小奴」(近江じん)と「梅川操」(小山操)

 

小松伸六の生れた北海道釧路は、当時23歳の歌人石川啄木(1886~1912)が、明治41年1月21日からわずか76日間彷徨した街である。啄木がこの「最果ての街」で出会った、2人の女性がいる。1人は、歌集『一握の砂』、日記などに出てくる芸者「小奴」(あとの近江じん)、そしてもう1人は、小説「病院の窓」の「梅野」のモデルとされ、日記にも出てくる看護婦「梅川操」(あとの小山操)である。

小松は、この2人に幾度か会い、彼女らの晩年の心境を書き残している。そこからは、石川啄木という歌人に翻弄された、彼女らの苦悩が伝わって来る。なお、この2人の啄木と関係のあった女性について、多くの研究者らの論考があり、その経歴などは触れないが、ここでは小松との関係だけを追ってみたい。

文学少年であった小松伸六に、彼女らの話を最初に聞かせてくれたのは、父と母であった。「商人であった父は、芸者遊びをし、釧路の花柳界にもくわしく、小奴の生涯にもかなり通じていた。母が小山操を知っていたのは、昭和の初めに小山さんが美容院をやっており、そこに通ったことがあるからだという」(「釧路における啄木の恋」)とある。

小松が、はじめて「小奴」を訪ねたのは、釧路中学時代で「北の啄木と南の白秋(北原)に夢中になった中学生の私は、近江さんと啄木のロマンスを姉からきいて、ぶしつけに近江屋旅館に彼女を尋ねたのであつた」(「永遠の聖女と不滅の淫女」)という。昭和5年ごろのことであった。「私が近江じん(小奴)さんを知ったときは、釧路でいちばん大きな近江屋旅館を経営する女将となっていた。私は釧路中学(現湖陵高校)の生徒だったが、そのころ近江さんは、ひとり娘をなくしたことしか語らぬ、普通の母であった。戦時中、啄木は社会主義の危険人物とされ、賢明な彼女は啄木について一言も語らなかった。それはパトロンI氏への遠慮もあったかと思う」(「好かれた女嫌われた女」)とも書いている。

そして、もう1人の女性「梅川操」(あとの小山操)と会ったのは、昭和24年ごろという。「私が小山さんに会ったのは終戦後の昭和二十四年ころだったとおもう。わたしは夏休みで、たまたま釧路の両親の家へ来ていて、彼女が広島から、ふたたび釧路に引き上げてきていたのである。小山さんは夫にしなれてからは、美容師となり、娘のとつぎさきの広島で原爆をうけたが、身体のほうは無事であった。そのとき啄木日記がはじめて公開され、(中略)ひどい女として書かれていることを、はじめて知ったのである」(「好かれた女嫌われた女」)とある。

そして戦後、金沢の金沢大学の教師になっていた小松は、昭和28年夏の釧路に帰郷した時、再び近江じん(小奴)を再び訪ねる。「昨夏、釧路へ帰省したとき久し振りでお会いしたが元気だった。美しいが今は静かに世間のなかに老いている釧路では、有数の旅館角大近江やの楽隠居であった。もし啄木と出会しなければそして天才ではあったが多少気まぐれの蕩児啄木――これはもう一人の、啄木と交渉のあった老女にきいた呪いにみちた言葉だが――この蕩児啄木の歌にうたわれることがなければ誰も話題にしなかったであろう」(「啄木と藤村とそして生きている三人の女性」)と。

戦後石川啄木の日記が公開されると、啄木と関係があった「生きている愛人」として、多くの研究者や学者たちが、釧路に近江じん(小奴)を再び訪ねてくるようになっていた。また小松は、近江さんから聞いたという、こんな出来事を残している。

「それは戦後、啄木忌にあたる四月十三日、釧路の公民館で啄木を追悼する会がひらかれたとき、近江じんさんは招待され、その美しい思い出を語った。そのとき、小山さんは突然、壇上にかけ上がり、ウソつき啄木の裏面をしゃべりだそうとして、司会者はあわててこれをおしとどめたという」(「釧路における啄木の恋」)。これは、昭和28年4月13日、北海道新聞社と釧路啄木会が共催し釧路市公民館で開催された「第2回啄木祭」のことと思われる。小松は、「梅川操」(あとの小山操)の「話を聞いて、そのいちずな気持も私にはよくわかるのであった」(「永遠の聖女と不滅の淫女」という。

そして、小松が最後に近江じん(小奴)と会ったのは、父が亡くなって帰郷した昭和32年のことであった。「そのとき近江さんは、すでに旅館を廃業し、丘の上の小さな家に隠せいしていた。脳溢血でたおれたときいていたので、お見舞いかたがた上がったわけだか、七十すぎとはみえない若々しさと上品さをもっていた」という。そして、こう語ったという。

「石川さんと私の関係は、今の言葉で申しますとプラトニックラブ。握手するのにも身体がふるえるほどでございました、いしかわさんはとても行儀がよい方で、いつもハカマをつけておりましたわ。頭に小さなハゲがあって、私たちは豆ランプというニックネームをつけておりましたの…お互に若うござんした」(「釧路における啄木の恋」)と。

小松は、「啄木を語る近江さんの言葉は誰にも、そしていつも同じことのようであった。ちょうど暗誦している歌のようを歌いあげるように、そしてそのなかに自分の失われた青春の残煙を追うて生きているかのように美しく話されるのであった」(「永遠の聖女と不滅の淫女」)と「永遠の聖女」となって語る、近江じんの姿を見る。

小松伸六はこの時、再び「梅川操」(あとの小山操)にも会っている。「私は小山さんに昭和三十二年に釧路で会った。彼女は、知人の一室をかり、ただひとりの自炊生活で、経済状態も極度に苦しいらしく「冬、零下二十度になってもストーブをたきません」ときいたとき、私は唖然となり、返す言葉もなかった」(「釧路における啄木の恋」)と、当時の様子を記している。その時、小説「病院の窓」や日記について「梅川操」(あとの小山操)は、「――あのころのことを、そして私がそんなふしだらな女でも危険な女でもなかったことを書きとどめ、できれば発表する機会をえたいと思いますが、なにせ筆をとることも知らず、思いをどのように発表してよいかわかりませんの。でも日記を読むと、ほんとうに口悔しくなって……。それにしてもあのアンコ(小僧っ子)みたいな羽織ゴロが天才だとは……、そうとしったら、私のような女でも、もう少ししとやかにしていたかもしれませんね……」と、寂しく苦笑して、小松に語っていたという。小松は、「梅川操」(あとの小山操)について、当時、函館の女学校を出て看護婦として「働く婦人」を、啄木はなぜ「危険な女」と日記に書いたのかと疑問を呈し、語り続けたのである。

小松は、この2人の女性にの晩年についてこう記す。

「その近江さんも、いつしか釧路を離れ、四年前、東京の養老院で死んでいったことを、新聞を見て衝撃を受けた。啄木歌集の絶勝として、永遠の世界へ美しく引きいれられているからいいのだが、同じころ、釧路から汽車で一時間半ほどはなれて弟子屈温泉の養老院に収容されていた「不滅の悪女」小山操さんは、一体どうなるのか。啄木の筆の暴力ではないか。たとえ啄木日記の公開は、啄木があずかり知らぬとしてでもある。プライバシー(私的権利を守る権利)は、余程、慎重でであったほしい」(「釧路における啄木の恋」)と。

近江じん(小奴)は、昭和40年2月に東京の養老院で、76歳で亡くなる。「梅川操」(あとの小山操)は、昭和42年9月に弟子屈の養老院で死去、82歳であった。

ここに引用し、小松伸六が啄木と二人の女性について書いたものは次の通り。

・「最果ての啄木の愛人」(『北国文化』昭和26年3月号)*未見

・「啄木と藤村とそして生きている三人の女性」(『文庫』昭和29年3月号)

・「永遠の聖女と不滅の淫女」(『新潮』昭和32年8月号)

・「釧路における啄木の恋」(『旅』昭和44年9月号)

・「誰よりも偉大なゲイシャ」(『文芸広場』昭和44年11月号)*未見

・「好かれた女嫌われた女」(『太陽』昭和45年10月号「特集・石川啄木と北海道」)

参考文献として下記のものを使用した。

鳥居省三著・北畠立朴補注『増補・石川啄木』(平成23年釧路市教育委員会

北畠立朴『啄木に魅せられて』(平成5年、北龍出版)

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『新潮』昭和32年8月号、『太陽』昭和45年10月号「特集・石川啄木と北海道」、『旅』昭和44年9月号、『文庫』岩波文庫の會、昭和29年3月号。

 

 

小松伸六ノート⑱ 東京新聞「大波小波」への寄稿

 

東京新聞「大波小波」の匿名子「兼愛」は小松伸六か!

 

東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」と言えば、前身の都新聞に端を発していて、80年以上も匿名批評として、時には様々な話題を文壇に投げかけ、いまも連載を続けている。小田切進編『大波小波・匿名批評に見る昭和文学史』(昭和54年、東京新聞出版局)全4巻があるが、その第4巻(1960-64年)を見ると、小松伸六がはじめて「大波小波」に寄せたと思われるコラムがある(なお、小田切進は立教大学で同僚であった)。

それは、昭和38年年4月29日の「忍月の金沢時代」で、最後にある匿名子は「兼愛」。近刊の海音寺潮五郎『武将列伝五』(文芸春秋新社)の「あとがき」に触れ、近頃の学生の卒業論文に触れ、「豊富なデータの上にたつ重厚な解釈こそ、歴史小説に必要という意味のことを書いている。」のあり、続けて、

「□……しかし近代文学研究の方では、同人雑誌のなかにも、新資料のすぐれた紹介がある。たとえば『北海道文学』(四号・札幌)では、鳥居省三が、啄木のつとめていた『釧路新聞』を中心に、明治・大正期の釧路文学運動史を徹底的にあらい、(中略)また三省堂の季刊『文学、語学』(二四号)では金沢大学助教授の福田福男が「石橋忍月の金沢時代」を紹介している。(以下略)」

とある。小松伸六は、北海道釧路生まれで、金沢大学での数年間の教員時代をおくった人であり、彼でなければ書くことができない一文と思われ、間違いなく匿名子「兼愛」は、小松と推測できる。その後、昭和38年、39年に「兼愛」の名で発表したものが、かなりある。38年7月11日の「主婦の感覚」では、「□……きのうの授賞式で第十一回の日本エッセイスト・クラブ賞をもらった新保千代子さんの『室生犀星―ききがき抄』(角川書店)」について書かれているが、『室生犀星―ききがき抄』は、小松伸六が主宰していた『赤門文学』に連載していたものである。同年9月21日の「日本文壇白書」では、「□……批評家というのは作家になりそこなった人間や、なりきれなかった人間から成り立っている。」と書き始めているが、小松は同様のことを、様々なところで語っている。同年12月13日の「最高シュクン選手」では、最後に近代文学館建設に触れ、「その縁の下の力もちとなったのが、立教大学の小田切助教授と学生たちである。この人たちことも忘れるわけにいかない。」とある。「その縁の下の力もち」とは、読んだ人にはその意味もわからなかったのではと思われる。これは、昭和36年立教大学田切進研究室が催した「大正昭和主要文芸雑誌展」のことで、小松は昭和40年9月15日の『立教大学新聞』の「書評・小田切進『昭和文学の成立』」に「げんざい日本近代文学館がつくられていることは、読者もご承知のことと思うが、その発祥地は、実は立教大学日本文学科小田切進教授研究室なのである。数年前、秋の大学祭のときに小田切さんは昭和期の有名な同人雑誌のほとんど全部かり集め、時計台の教室で展覧をやったのである」とあり、「最高シュクン選手」の一文と重なる。昭和39年4月2日の「『赤穂浪士』寸感」は、大佛次郎の「赤穂浪士」を語っているが、小松は昭和39年1月に新潮文庫大佛次郎赤穂浪士』(上下巻)の「解説」書いているから、宣伝も兼ねていたのかも知れない。昭和39年9月2日は、「太宰文学賞」について書いているが、かつて太宰にあったこともある小松は、「太宰賞も新鮮な才能を発掘してもらいたいが、太宰の亜流ほど困った存在もまたないのである」と厳しい匿名批評を寄せている。

田切進編「大波小波・匿名批評に見る昭和文学史」は、あくまでも文芸関係の「大波小波」を選んで収録。それも昭和39年で終っており、それ以後の多くを知ることができない。

そして、釧路市中央図書館に、昭和41年10月29日『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄稿した、小松伸六(匿名子不明)の「ものを書く女、昔と今」原稿が残されているという。

さらに、最近のインターネットのオークションに、昭和44年頃の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄せた小松伸六の原稿が2点出品されていた。「裸で抵抗」(天神派)、「退屈な大作家達」(転落者)。原稿には「小松伸六」の名前があり、最後の匿名子は、「天神派」「転落者」とあるが、このコラムの特徴は、執筆者が匿名子を様々に変えることで有名で、小松も色々な匿名子で書いていたと想像できる。また、古書店のHPに、ペン書四百字詰2枚揃「おんな大学」が出品されているが、これは間違いなくコラム「大波小波」に寄せたものであろう。

なお、釧路市中央図書館は、芥川賞受賞作清岡卓行アカシヤの大連」書評4枚のほか、「ヨーロッパのテレビ」「西ドイツの新聞」「日本人の遊び」「新聞小説作家評伝」の原稿を所蔵しているという。もし書評以外原稿が、原稿用紙2枚のものならば、『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄せたものと考えられる。

小松伸六は、昭和38年から昭和40年代の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に、匿名記事をかなり寄せたものと考えられる。小松の、隠れた仕事の一つと言える。

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田切進編「大波小波・匿名批評に見る昭和文学史」、小松「書評・小田切進『昭和文学の成立』」。写真・小田切進と小松伸六、「大波小波」の原稿。

 

 

 

小松伸六ノート⑰ 井上靖と小松伸六

井上靖と小松伸六

 

井上靖(1907-1991)は、北海道旭川市生れ、京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、昭和25年2月「闘牛」で芥川賞を受賞している。受賞直後、金沢の第四高等学校で教師をしていた小松伸六は、井上が勤めていた東京の毎日新聞社を訪ねている。

「私が井上さんにはじめて会ったのは、昭和は25年、氏が『闘牛』により芥川賞をもらって間もないころだった。私は金沢市から出ている地方紙に頼まれ、井上氏のインタヴュー記事を載せるため、氏を訪問したのである。井上氏が四高(旧制、現在の金沢大学)出身だったからである。氏は毎日新聞社のある一階の喫茶店で待っていた。」(『豪華版日本文学全集28 井上靖集』(昭和41年、河出書房新社)、「解説」)

その時井上は43歳、小松は35歳、金沢の北国新聞社が出していた『北国文化』編集者であった。金沢に縁のある井上への取材を、北国新聞社に頼まれたのであろう。

「紺のダブルを着た、小柄な、しかし筋肉のしまったきりっとした中年の紳士が足早にやってきなから、「お待たせしました……」とものやわらかく挨拶されたのが『闘牛』の作家であった。あさぐろい顔色のなかに、清純な眼だけが光っていた。」(同上)と、その第一印象を書き残している。小松は「そんな眼差しについて、私は当時こう書いた」と、その一文を再録もしている。「氏の一方の眼からは寛容、友情、愛がのぞき、他方の眼からは、それと反対の非情、傍観、孤独がのぞかれるのではないか。しかも二つの眼、矛盾した眼が、相殺されながら一つの眼差しになってあらわれる。それが井上氏の詩眼なのである。」このインタビユー記事は未見だが、昭和25年3月12日の『北国新聞』に、小松は「私の東京手帳」を寄せているから、そこに書いたのかもしれない。

2年後の昭和27年6月、井上靖文藝春秋社の講演会で金沢へやって来る。6月24日の『北国新聞』に「座談会 文壇人大いに語る」(未見)がある。出席者は深田久弥丹羽文雄、吉屋伸子、佐々木茂索、井上靖亀井勝一郎源氏鶏太である。この座談会に小松伸六も出席している。井上靖は、その時深田久弥と初対面であったと、当時のことをこう回想している。

深田久弥氏に初めてお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃、金沢に於いてであった。小松伸六氏がまだ金沢大学に居られ、筑摩書房の加藤勝代氏が北国新聞の記者をされていた頃である。(中略)とにかく金沢の料亭で、小松、加藤両氏らと一緒に深田さんにお目にかかったのである」(「深田久弥氏と私」、『きれい寂び―人・仕事・作品』所収、昭和55年)

小松は、その後井上靖文学を語り続けることとなる。小松は、昭和30年4月から、東京の立教大学の講師に就任し、自ら同人雑誌『赤門文学』を主宰していた。

昭和31年11月、『赤門文学』第6号に「作家以前の井上靖―「あすなろ物語について」」を筆名・内海伸平)で書いている。また小松伸六は、「作家の方法-「孤遠」の世界」を寄せているが、これは井上靖が『文藝春秋』31年10月号に発表した「孤遠」について論じたものである。この年、11月刊の和田芳恵が編集発行人の『下界』(東京)第6号には「井上靖の影の部分」を寄せる。そして、この年12月刊の井上靖『楼門』(角川文庫)に、小松は井上の文庫としてはじめて「解説」(未見)を書いている。さらに昭和32年4月には、『井上靖長篇小説選集 第1巻』(三笠書房)に「解説」を寄せ、収録された「あすなろ物語」「霧の道」について書いている。この年11月刊の『赤門文学』第9号に「歴史小説ノート―井上靖論断片」も寄せている。

このころの井上靖に、「作家ノート」(『新潮』昭和33年9月号から1年間連載)があるが、そこに小松伸六がたびたび登場する。昭和33年7月6日から井上靖は、瓜生卓造、福田宏年、三木淳らと穂高に登山旅行するが、そのメンバーに小松伸六がいる。翌7月7日には「蒲柳の質たることを自他共に許す小松氏は一人徳沢に泊まることになっていたが、ここに来て、引き返す」とある。そして10月9日には、「そこへ小松伸六氏が金沢の陶工、滝口加全さんと一緒にくる」とある。井上の「作家ノート」から、当時は作家と評論家との関係を越えた交友があったことがわかる。

そして昭和35年11月から『井上靖文庫』(新潮社)全26巻が刊行され、翌昭和36年1月刊『井上靖文庫』第18「海峡、緑の仲間」、翌昭和37年1月刊『井上靖文庫』第13「満ちて来る潮」、7月刊『井上靖文庫』第7「白い牙、春の嵐、霧の道」(新潮社)にそれぞれ「解説」を寄せている。その間。の昭和36年の『若い女性』8月号に「井上靖作〝河口〟から」。も寄せている

昭和37年7月刊、井上靖編『半島』(有紀書房)に小松は「花咲半島」を寄せているが、井上が書かせたのかも知れない。昭和39年の『国文学 解釈と鑑賞』10月号に「井上靖の魅力を探る」。昭和41年8月刊『豪華版日本文学全集28 井上靖集』(河出書房新社)に「解説」を寄せる。

昭和39年1月、井上靖が57歳の時最年少で日本芸術会員になり、そのお祝いの会に小松伸六が出席している。「たしか、井上靖さんが芸術院会員になったお祝いの会、といっても十五人ほどの親しい山の仲間だけの会だったのですが、そのとき源氏さんもとび入りされて、お酒がすすむと、みんなから歌をうたわされ、その上、かくし芸まで披露しろと強制されました。」(「源氏さんの印象とその文学」、昭和63年3月刊『とやま文学』第6号)とある。昭和43年夏には、小松は軽井沢の井上靖の別荘に対談の仕事で訪れる。源氏鶏太を語るなかで、小松伸六は当時をこう回想している。「今も軽井沢に源氏さんの山荘があるのではないかと思うのだが、その隣には井上靖さんの家があって、私は井上家に泊めてもらったことがある。かれこれ二十年前のある夏日のことである。宿がどこも満員で困り果てて井上家に泊めていただいたのである。」(「源氏さんの印象とその文学」、昭和63年3月刊『とやま文学』第6号)。この時の、井上靖との対談は、新潮社『波』昭和43年10月号に井上靖との対談「井上靖氏自作を語る」(未見)として載っている。井上靖源氏鶏太は軽井沢では隣同士、ゴルフ仲間でもあり、この2人と小松伸六をめぐるエピソードは限りない。

小松の、井上靖文学に関する仕事は続く。昭和48年3月刊『井上靖小説全集』(新潮社)第九巻に「書評・無償の情熱「射程」」を収録される。昭和50年3月刊の『國文學 解釈と教材の研究〈特集・井上靖〉』に「ロマンの世界・「氷壁」の場合」。昭和51年6月刊『井上靖小説全集 第30巻 夜の声,欅の木』(新潮社)の付録に「井上靖と老年様式」を寄せる。昭和57年5月に刊行された『井上靖の世界がわかる本』(辰巳出版)に、「井上靖の魅力/自伝・新編小説/清冽感の漂う源泉」として「あすなろ物語」「しろばんば」「わが母の記」「北の海」など9作品について、その魅力を語っている。

最後に、今もロングセラーとなっているものもある小松伸六が井上靖の文庫に「解説」を寄せた一覧を載せる。確認できたのは9冊である。

井上靖『楼門 他七篇』(昭和31/1956年、角川文庫)

井上靖『戦国無頼』(昭和33/1958年、角川文庫)

井上靖『真田軍記』(昭和33/1958年、角川文庫)

井上靖春の嵐・通夜の客』(昭和34/1959年、角川文庫)

井上靖しろばんば』(昭和44/1969年、旺文社文庫

井上靖『夏草冬濤』(昭和45/1970年、新潮文庫)/平成元年、二分冊として刊行

井上靖『その人の名は言えない』(昭和50/1975年、文春文庫)

井上靖『花壇』(昭和55/1980年、角川文庫)

井上靖『北の海』(昭和55/1980年 中公文庫)平成17年二分冊なり解説者が変わる

なお小松伸六は、北海道の釧路生れ。昭和38年6月15から21日のあいだ、井上靖佐藤春夫夫妻と北海道一周旅行に出かけ釧路地方も旅しているが、その時の感想を小松に語っている。小松の「根釧原野」(『北海道の大自然世界文化社、昭和56年)のなかに、「私は釧路生れ、中学四年までこの町でに育った。(中略)くらい風土と病気が、私を文学の迷路へと誘惑したのではないかと考える。「根釧原野を走っているとシベリアを走っているのと同じ、釧路で育ったなら文学でもやるより仕方ありませんね」と、井上靖さんが私に話されてから、十年以上にもなるだろうか、井上さんは旭川生れ。」とある。 

戦後の長きにわたって交友があった2人だが、平成3年1月に井上靖が83歳で死去、井上靖文学を語り続けた小松は、評論家としての仕事を絶っていた76歳の時であった。

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『豪華版日本文学全集28 井上靖集』、「解説」寄せた文庫、『井上靖文庫』、井上靖の論考を寄せた『赤門文学』、『井上靖の世界がわかる本』など

 

小松伸六ノート  ちょっと寄り道⑤

文芸評論家佐伯彰一とのこと

 

佐伯彰一(さえき しょういち、1922~2016)と言えば、文芸評論家として、日本のアメリカ文学者として、あるいは世田谷文学館館長、三島由紀夫文学館初代館長として知られている。しかし、佐伯の後年の昭和、平成時代に残した多くの業績にスポットライトがあてられ、若い時代の仕事について語られることは少ない。そんななか、小松伸六の残した戦中、戦後の仕事を追うなかで、幾度となく登場するのが、その佐伯彰一である。先日、小松の「佐伯さんのこと―わが芸道の師」が載った、佐伯彰一編『自伝文学の世界』(昭和58年、朝日出版社)をようやく入手することができ、そのなかで2人の深い友情を知ることができた。

「なんて頭の回転の早い学生だろう、というのが、白眥の美少年だった佐伯彰一さんから受けた第一印象、戦前の同人雑誌『赤門文学』を主宰していた平田次三郎さんの紹介で、東横線の都立高校駅(今の都立大学駅)の近くで会ったときのことである。(中略)英文科に席をおいていた彼は、その頃としては珍しくアメリカ文学の作品をよく読んでいたのをおぼえている。同人誌には堀辰雄論を載せていた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)

第一次「赤門文學」については、「主な執筆者に、平田(次三郎)のほか佐伯彰一高橋義孝渡辺一夫上林暁、高見裕之、山岸外史、中野好夫らがいた」(『日本近代文学大事典』)とあるが、昭和17年10月号『赤門文学』に、佐伯彰一堀辰雄論」が載っている。なおこの号に、小松伸六は筆名・内海伸平で「中野重治論」を寄せているから、2人が出会ったのはこのころであろう。その時小松は、東京帝国大学大学院を卒業したばかりの27歳、佐伯は東京帝国大学文学部英吉利文学科2年生の20歳のときであった。「その後、雪の深い信越線国境の関山村に、私の妻の実家をたずねてくれた」ともある。小松は、昭和19年11月に結婚しているが、その前後の話であろう。やがて戦争が激しくなり、二人の交友は途絶える。小松は、昭和21年9月、金沢の第四高等学校(あとの金沢大学)にドイツ語講師して赴任していた。

「戦争がおわったとき、彼の消息を私は知らなかった。ところがある冬、雪のふりしきる午後三時ごろ、彼と金沢大学医学部附属病院の前で偶然に再会。彼は富山高校(旧制)、私は四高につとめていた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)

佐伯は、東京帝国大学文学部を卒業後、予備学生として海軍に入り、戦後は終戦連絡将校として佐世保、鹿児島などで通訳を務め、昭和21年3月から、故郷である富山の富山高等学校の教員になっていた。新制大学の発足は24年5月だから、2人が偶然再会したのは、小松が、四高に勤めていた23年の冬のことと思われる。

「その再会後、親しくなった。彼が金沢にくるときには何度か会い、出来たばかりの民間放送のラジオにもひっぱり出した。彼は天才的語り部、しかも話は面白いのだから、私はただ、「うん、うん」と相づちうっていればよかった。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)  

小松は、昭和24年3月号から『文華』の編集長となっていた(この年5月に『北国文化』と改題)。小松の誘いで、佐伯彰一が『北国文化』にはじめて登場するのは昭和24年4月号(第39号)で、「アメリカ文学の焦点」を寄せている。5月号(第40号)には「民衆の目―スタインベックの報告」、8月号(第43号)には「天皇制と私」を寄せている。昭和25年4月号(第41号)には「二十世紀文学の宿命」、6月号(第53号)には、「オルダス・ハックリスの手紙」、オルダス・ハックリス「佐伯彰一への返事」と、その「あとがき」を寄せている。

その後佐伯は、昭和25年7月から1年間アメリカに留学の州立ウィスコンシン大学に留学している。「彼はやがてフルブライト留学生として渡米。金沢の地元紙が金を出してくれていた月刊誌『北国文化』にアメリカ通信を寄せてくれた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)とあり、昭和26年1月号(第60号)に佐伯彰一の「アメリカ便り」、3月号に(第62号)「アメリカ便り―エリオットの講演について」を寄せている。

「彼との因縁は更につづく。彼が富山から上京した年、私も偶然上京、駒田信二さんは松江から、福田宏年さんは水戸から出てきたので、私が編集者になり、みんなで同人誌『赤門文学』を復刊した。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)とある。小松伸六は、昭和30年4月から立教大学のドイツ語講師になり、その年の4月、第四次『赤門文学』を復刊する。佐伯彰一は、東京都立大学人文学部に勤めていたころと思われる。

4月の復刊『赤門文学』第1号には、小松伸六・内海伸平・佐伯彰一の3人の筆名で「伊藤整の方法」、6月刊第2号には佐伯彰一・高見裕之・小松伸六の3人の筆名で「石川淳の方法」がある。なおこの号の小松の「編集後記」に「ちなみに、編集委員平田次三郎駒田信二佐伯彰一、加藤勝代、小松伸六が当分、その任にあたることになった」とある。10月刊の第3号に佐伯彰一・小松伸六の2人の筆名で「武田泰淳の方法」を寄せている。当時『赤門文学』同人会を、月1回小松の家で開いていたというから、佐伯もたびたび姿を見せていたに違いない。

昭和43年『國文學 解釈と教材の研究』9月号に、小松は「現代評論家の肖像 佐伯彰一」を寄せている(未見)。そして、昭和56年2月、はじめての著作『美を見し人はー自殺作家の系譜』(講談社)を書下ろしで刊行する。『文學界』六月号に佐伯彰一の書評「小松伸六『美を見し人は』」が載る。これも未見だが、長く交友があった佐伯の、優しい言葉があったに違いない。

なお小松の「佐伯さんのこと―わが芸道の師」には、佐伯がテレビの料理教室に出た話、物忘れの名人であったことなどの、様々なエピソードを書く。そして、「彼の住居は自由ケ丘、私は二つほど駅の離れた尾山台に住み。彼がいる等々力も近くで、今でも自由ケ丘の駅で偶然出会うことがある。そんなことで公私ともどもお世話になっている。」と語り、「彼が戦後まもなく匿名で書いた小説がある。紛失してしまったが、これさえあれば、彼をからかうことも出来るのだが、残念。セイキン(星菫)派ふうなものだったという記憶がある。」と、親しみを込めた言葉で終る。小松は、平成18年3月、91歳で死去。佐伯彰一は、10年後の平成28年1月、93歳で死去。ともに長い人生を送った文芸評論家であった。

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佐伯彰一編『自伝文学の世界』、佐伯彰一の論考が載った第四次『赤門文学』。

【訂正】写真は、小田切進と小松伸六。

 

小松伸六ノート⑯ 水上勉と小松伸六

水上勉と小松伸六

 

昭和36年7月、『雁の寺』で 第45回直木賞を受賞、弱者に向けられた温かいまなざしで数多くの作品を執筆し、昭和を代表する人気作家といわれた水上勉(みずかみ つとむ 1919~2004)。小松伸六は、文芸評論家としてその生涯を見続けていた。

「いま文壇における代表的日本人をあげよといわれたら、私はちゅうちょなくそのひとりに水上勉をあげる。水上勉は日本文学の伝統に流れている日本的叙情の具現者であり、表現者であるからだ。もう一つ限定すれば、水上勉はもしかすると裏日本の代表的作家でもあるかもしれない。私は水上勉を論ずるとき、これまで氏を湿度的作家といってみたり、寒流型作家といったのもそのためである。」

これは小松が、昭和53年7月刊の『別冊新評・水上勉の世界』に寄せた「叙情による認識と表現 水上勉入門」の最初の言葉である。福井県大飯郡本郷村字岡田に生れた水上勉を論じたものだが、自ら、日本海に面した新潟、金沢で過ごしたこともある小松は、「私事になるが、私は海氷る北の果てといわれる釧路生れの北海道育ち、高校時代は新潟、戦後八年は金沢暮らし、母は福井県武生在の出身なので、日本海の人と自然は多少わかる。」と書いている。同様のことを、昭和55年3月臨時増刊号『面白半分』の「特集・かくて水上勉。」の「水上勉断片」にもこう書いている。

「水上氏はたえず生まれ故郷の若狭を小説にも書き、話もする。しかも福井県人とはあまり言わないようである。私事になるが私の母も〝越前生れ〟とよく言っていたが、貧しさから祖父母と札幌に流れてきた。父は尾道広島県)からのお金ほしさの流れ者である。清教徒でもなければ、理想をもって新天地へきた開拓者でもない。二人は〝化外の地〟だった明治の北海道へ流れてきた。のちに父は一応の成功者となり、女遊びをしつづけた。好悪の念がはげしい母が、それによく堪えつづけてきたと思う。そして忍苦の一生を終えた。」

小松は、水上勉が小説のなかに描く女性の姿に、母を重ねていたのである。その小松が、最初に水上作品に触れたのは、直木賞を受賞直後の昭和36年7月21日の『産経新聞』で、そこに「松本清張水上勉」(未見)を寄せている。当時、水上が当時社会派推理小説で注目されたというから、松本清張とともに推理作家のひとりとして書かれたものだろう。その後小松は、『毎日新聞』昭和38年11月19日に「大衆小説ノート」を寄せ「銀の庭」について、『サンデー毎日』昭和39年6月14日号には書評「高瀬川」を寄せ、水上文学を語り続ける。

昭和38年12月号の『映画評論』に小松は、「「越前竹人形」と「五番町夕霧桜」」(未見)を寄せている。この年10月、水上勉原作による「越前竹人形」が吉村公三郎監督のよって映画化、11月には「五番町夕霧桜」も田坂具隆により映画化されている。映画評論も手掛けていた小松は、映画化された作品を観て一文を寄せたのだろう。なお、翌年1月号の『映画評論』、吉村公三郎の「小松伸六氏へ」(未見)が載っているが、詳しくはわからない。

昭和43年六月刊『日本短編文学全集38 岡本かの子武田泰淳水上勉』(筑摩書房)に、「桑の子」「棺」など四篇が収められたが、小松は「鑑賞」に、「短篇の名手といってもいい」と書く。昭和44年9月には、『日本文学全集40 有吉佐和子松本清張水上勉北杜夫瀬戸内晴美司馬遼太郎』(新潮社)が刊行され、小松は「解説」を寄せ、「現在は、失われていく日本の伝統の美しさを追求した作品を発表している」と、水上が、次第に純文学的な作品を書き始めることに触れている。

小松は、昭和47年1月刊の『現代日本文学大系89 深沢七郎 有吉佐和子 三浦朱門 水上勉集』(筑摩書房)に「水上勉の文学」(未見)。昭和50年12月刊の『昭和国民文学全集29 水上勉集』(筑摩書房)月報に「雑談的印象記」(未見)を寄せ、水上勉の人と文学を語り続ける。

昭和51年6月から『水上勉全集』(全26巻 中央公論社)の刊行がはじまり、同年6月刊『新刊ニュース』№311号に、水上勉と小松の対談が載る。未見だが、『風を見た人』(第5巻、昭和51年10月刊、講談社文庫)の解説に、その時の様子を書いている。「たまたま私は今年、水上さんと対談する機会を得た。水上全集二十二巻が、この六月(昭和五十一年)中央公論社から刊行され、それについて「新刊ニュース」(三一一号)で対談することになったからである。」とある。その対談は、「仕事は山にこもってしており、東京へは雑用で出てくるのです。今日も山からおりてきたばかりでで、まだ家にも帰っておりません。電話はかけてありますが……」と、はじまったようである。水上のいう「山」とは、軽井沢の山荘のことという。「以下は水上さんの話」として、水上が語る、体の不自由な娘さんの話の長く綴っている。

小松は『流れ公方記』(昭和52年5月刊、集英社文庫)の「解説」のなかで、「私は氏と二度ほど席を同じくしたことがあるが、このひとほど人の気持にふれてくるメンシェン・ケナー(人間通)を私はほかにしらない。」と書いているが、最初に会ったのは、「多分雑誌『旅』の座談会で、安岡章太郎氏もそばにいたと思う。それが水上氏との初対面だが、話に描写があり、手に何か表情があるのではないかと思うほど、うまく手を使うので感心したおぼえがある。座談の大家である」(「水上勉断片」)と書いている。これは、昭和42年1月号『旅』に載った、安岡章太郎水上勉と小松による、紀行文学賞受賞作品発表の座談のことだろう。 そして小松は、昭和53年1月刊の『水上勉全集 第十七巻』(中央公論社)月報20に「寒流型作家」を寄せる。ここでも『新刊ニュース』での対談での、「紙巻たばこ」のエピソードを残している

そしてこの年7月刊の『別冊新評・水上勉の世界』に、「叙情による認識と表現 水上勉入門」を寄せ、2年後の昭和55年『面白半分』三月臨時増刊号「特集・かくて水上勉。」には「水上勉断片」を寄せ、水上勉の人と文学を「裏日本の作家」として詳しく語る。ここに、小松が、水上勉の文庫本に「解説」寄せた確認できたものの一覧を掲げる。

水上勉『銀の庭』(昭和41/1966年、角川文庫)

水上勉『湖笛』(昭和43/1968年、角川文庫)

水上勉有明物語』(昭和45/1970年、角川文庫)

水上勉西陣の女』(昭和47/1972年、新潮文庫

水上勉『北国の女の物語』(上巻、昭和50/1975年、講談社文庫)

水上勉『風を見た人』(第五巻、昭和51/1976年、講談社文庫)

水上勉『流れ公方記』(昭和52/1977年、集英社文庫

ここで、小松の文庫「解説」について詳しく触れないが、『流れ公方記』にある、「私は氏と二度ほど席を同じくしたことがあるが、このひとほど人の気持にふれてくるメンシェン・ケナー(人間通)を私はほかにしらない。」という言葉だけ引用したい。

昭和63年4月には、『昭和文学全集第25巻(深沢七朗・瀬戸内晴美有吉佐和子水上勉曾野綾子)』(小学館)に「水上勉・解説」を寄せ、「もしかすると水上さんは代表的日本人のひとりではないかと思う。政治家、知識人、学者というエリート・コースの人ではなく、いわゆる庶民的な日本人の代表という意味においてだ」と書く。そして、「岐阜県羽島の旧友(故人)がはじめたボランティア活動のひとつ」である施設拡張の趣意書に水上さんの推薦状を書いてほしいと頼まれる。小松は、「引き受けて下さるかどうかわからない」と思いながら手紙を送ると、「水上さんはすぐさま京都で書かれ、羽島の知人にわたされた」と書いている。小松と、水上の心温まるエピソードである。

平成16年9月、水上勉は肺炎のため85歳で死去する。小松は、文芸評論家として仕事を絶っていた89歳の時である。そして5年後の平成21年9月9日付『朝日新聞』の「天声人語」にこんな一文が載った。筆者は、かつて水上勉からもらった手紙について書く。

「作品やテレビを通して思い描いていた通りの印象を受けた。たたずまいの端正さや静かさと、その奥底にうずくまっている熱情のようなものを感じた覚えがある。『昭和文学全集』(小学館)の解説に、小松伸六さんが書いていた。「私は以前水上文学を、『生活する歌ごころ』と書いたことがある。それは在所の悲しい子守唄であり、放浪生活歌である。また人生遍路の諷詠であり、失われた日本へのエレジーでもある」。簡素で、しかも空疎ではなく深い内実のある、地べたからの発言だという。」

小松は平成18年3月に亡くなっており、この「天声人語」を目にすることはできなかった。

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水上勉全集 第十七巻』と「月報」、『昭和文学全集第25巻(深沢七朗・瀬戸内晴美有吉佐和子水上勉曾野綾子)』、『別冊新評・水上勉の世界』、『面白半分』三月臨時増刊号「特集・かくて水上勉。」、「解説」寄せた文庫など。

 

 

小松伸六ノート⑮ 源氏鶏太と小松伸六

源氏鶏太と小松伸六

 

文芸評論家小松伸六の残した仕事を追うなかで、一番驚いたのは源氏鶏太(げんじ・けいた、1912-1985)の文庫に寄せた「解説」の多さである。その数20冊に及ぶが、まだ確認できないものがあるかも知れない。源氏鶏太は、昭和26年に「英語屋さん」他で第25回直木賞を受賞する。その後、ユーモアあふれるサラリーマン物の小説を多数発表し、「サラリーマン小説の第一人者」と呼ばれていた。そして今日、源氏鶏太『英語屋さん』(集英社文庫)、『御身』(ちくま文庫)などが刊行され、復活のきざしが生まれている作家でもある。

小松が源氏と初めて出会ったのは、昭和27年6月、金沢の文藝春秋社の講演会であろう。未見だが、27年6月24日の『北国新聞』に「座談会 文壇人大いに語る」があり、出席者は深田久弥丹羽文雄、吉屋伸子、佐々木茂索、井上靖亀井勝一郎源氏鶏太である。その時小松も出席している。昭和38年4月にはすでに『家族の事情』(角川文庫)に解説を寄せている。昭和39年8月に出た源氏鶏太『悲喜交々』(角川文庫)の「解説」のなかに、こんなエピソードも残している。

「私も三度ほど源氏さんに会ったことがありますが、いつも微笑をたたえ、明るい雰囲気に包まれている方でした。たしか、井上靖さんが芸術院会員になったお祝いの会、といっても十五人ほどの親しい山の仲間だけの会だったのですが、そのとき源氏さんもとび入りされて、お酒がすすむと、みんなから歌をうたわされ、その上、かくし芸まで披露しろと強制されました。」

井上靖芸術院会員なったのは昭和39年1月だから、そのころの出来事であったろう。その時小松は49歳、源氏52歳である。この年の昭和39年7月には『現代の文学30 源氏鶏太集』(河出書房新社)が刊行され、小松は「解説」を寄せ、源氏鶏太の人と文学について詳しく語っている。そして11月には、『源氏鶏太自選集(限定版)』(千部、集英社)が刊行され、未見だが、ここにも「解説」を寄せている。

こんなエピソードもある。昭和43年夏、小松は、『波』10月号に井上靖との対談「井上靖氏自作を語る」の取材のため、軽井沢の井上靖の別荘を訪れ、その日井上の別荘に泊まる。

「その夜、井上さんから源氏さんが隣にいるよと言われたのでびっくりした。ちょつとお会いしたいなあと私が言うと、それじゃ来てもらいましょうと、電話をかけ、間もなく源氏さんがあらわれた。」(「源氏さんの印象とその文学」、昭和63年3月刊『とやま文学』第6号) 

その時、「文学の話はあまりしなかったように記憶する」と言っているが、井上と源氏は、ゴルフの話に夢中になったと軽井沢での出来事を残している。

そして、昭和48年5月から『愛蔵版・源氏鶏太自選集』(全20巻、講談社、昭和49年12月まで)が刊行され、小松はそこに解説を寄せたという。

「愛蔵決定版『源氏鶏太自選作品集』全二十巻(講談社)が終わった昭和五十年、源氏さんはその解説を私と中国文學者の駒田信二さんいっしょにしていただいたお礼だといって、私と講談社出版部の人々をレストランに招待して下さったことがある。そのとき、さかんに源氏さんはサラリーマンの怨念を妖怪ロマンのかたちで書いてみたいという話をしていたことを私ははっきり記憶している。」

その後源氏健太は、サラリーマン幽霊が現れる小説など「幽霊もの」「妖怪もの」を発表する。なお、『愛蔵決定版 源氏鶏太自選作品集』を近くの図書館で調べたが、本体に解説がなく、おそらく「月報」に解説を書いたと思われる。なお、小松は昭和52年には、7月刊『現代小説'76』(日本文藝家協会角川書店)に収める作品の選考を、源氏鶏太とともに務めることもあった。

さて、小松伸六が源氏健太の文庫に残した「解説」次のようになる。いずれも、掲載作品を詳しく書いている。

源氏鶏太『家族の事情』(昭和38/1963年、角川文庫)

源氏鶏太『夢を失わず』(昭和39/1964年、新潮文庫

源氏鶏太『悲喜交々』(昭和39/1964年、角川文庫)

源氏鶏太『御身』(昭和40/1965年、新潮文庫

源氏鶏太『流れる雲』(下巻、昭和44/1969年、角川文庫)

源氏鶏太『浮気の旅』(昭和45/1970年、角川文庫)

源氏鶏太『口紅と鏡』(昭和47/1972年、新潮文庫

源氏鶏太『掌の中の卵』(昭和48/1973年、新潮文庫

源氏鶏太『歌なきものの歌』(昭和50/1975年、新潮文庫

源氏鶏太『社長秘書になった女』(昭和51/1976年、角川文庫)

源氏鶏太『女性自身』(昭和52/1977年、角川文庫)

源氏鶏太『艶めいた海』(昭和53/1978年、角川文庫)

源氏鶏太『時計台の文字盤』(昭和53/1978年、新潮文庫)

源氏鶏太『優雅な欲望』(昭和53/1978年、集英社文庫

源氏鶏太『ずこいきり』(昭和54/1979年、新潮文庫

源氏鶏太『夫婦の設計』(昭和54/1979年、角川文庫)

源氏鶏太『若い海』(昭和55/1980年、新潮文庫

源氏鶏太『湖畔の人』(昭和56/1981年、新潮文庫

源氏鶏太『英語屋さん』(昭和58/1983年、集英社文庫

源氏鶏太『奥様多忙』(昭和60/1985年、講談社文庫)

小松が『奥様多忙』の「解説」を寄せたのは昭和60年3月、この年9月12日、源氏鶏太は73歳で死去、9月14日の告別式に出席、その日のことを「源氏さんの印象とその文学」のなかで回想する。

「六十年九月十四日の源氏さんの告別式は麻布の善福寺で行われたが、弔問客のなかで源氏さんに特に親しい方々がこられると奥様の泣きくずれる姿が今も目にうかんでくる。「小松さん、一番よくよんで下さった批評家として感謝します」という手紙をいただいたことも思い出す。じつになつかしい作家である。」

この一文は、昭和63年3月、源氏鶏太の出身地富山県富山市から出ていた『とやま文学』第6号「特集・源氏鶏太の世界」に寄せた「源氏さんの印象とその文学」のなかにある。このころ小松は、『とやま文学』の「とやま文学賞」の選者を務めている。長い間、源氏鶏太文学を語り、交友があった作家への恩返しで出会ったかもしれない。

*追記・2月20日、小松の解説が載った文庫、1冊追加。

*追記・2022年3月21日、小松の解説が載った文庫、もう1冊追加。

 源氏鶏太『男と女の世の中』((昭和45/1970年、新潮文庫)、計21冊。

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「解説」載った文庫、『現代の文学30 源氏鶏太集』、『とやま文学』第6号の「源氏さんの印象とその文学」。