小松伸六ノート② 小松伸六と『赤門文學』その1

第一次『赤門文學』と小松伸六

小松伸六が、戦前の第一次『赤門文學』に、ペンネーム内海伸平の名で数多くの論考を寄せたことは、あまり知られていない。『北海道文学大辞典』には、「釧路生まれ。筆名内海伸平。」とあるが、『日本近代文学大辞典』の小松伸六の項には、内海伸平の筆名で書いていたことは触れられていない。その『日本近代文学大辞典』の「赤門文學」の項には、こう記されている。

「第一次は、昭和16・12~19。2.全21冊。編集人赤門文学会、代表石川道夫。赤門書房発行。事実上の編集責任者は平田次三郎で編集後記の大半が彼の手になる。(中略)東大系同人誌、『豊葦原』『群島』『詩と小説』『石段』『新樹』『新思潮』『野』の7誌70名余りが合同成立した赤門文学会の機関誌。」(太田登)

まず、編集責任者は平田次三郎(1917~1985)について触れると、福島県生まれ評論家、ドイツ文学者で、1941年東京帝国大学文学部独文科卒。在学中、山下肇、堤重久、小島輝正らと同人誌『新思潮』を刊行している。当時、小松伸六は平田より一年早く東京帝国大学文学部独文科を卒業し大学院に在籍しているが、同じ独文科で学んでおり二人は親しかったことがわかる。『赤門文學』が創刊された当時、小松は東京帝国大学図書館の写学生を経て、文部省の映画社会教育映画科に勤めていた26歳のころである。第一次『赤門文學』に触れる前に、小松が書き残した、平田とのエピソードがある。

「独文にかわっても、あまりいい学生ではなかった。先生になろうとも、学者になろうとも思わなかった。登校するのは友人とあうためであった、同人雑誌の打合せをするためであった。(中略)大陸では南京攻略が始まっていた。私たちは無関心であった。無関心であることによってしか抵抗はできなかった。そのまえ、こんなことがあった。本郷の酒場で夜おそくまで飲み、乱酔のあまり革命歌を合唱して、私たち愚連隊のうち五人が本富士署にあげられ、今、文藝評論を書いている平田次三郎君のお父さんが、もと警視庁の総監の官房長官をやっていたので、平田君の夫君を通して、もらい下げをやってもらい、私たちはそれでも二ヶ月で本富士署を出ることが出来たのであった。」(内海伸平「私の東京地図1 浅草感傷記」、『北国文化』昭和27年9月、9,10月号)

平田次三郎はそれまで『新思潮』同人、小松伸六が関わっていた同人誌の名前は解らないが、同じ独文の卒業生として親しかったようである。さて第一次『赤門文學』編集者でもあった平田次三郎の誘いで寄せたと思われる、小松伸六(筆名・内海伸平)の論考に触れてみたい。幸い、第一次「赤門文學」( 昭和16年昭和19年発行)の復刻版全21冊が出ており、調査してみた(『昭和前期文芸・同人雑誌集成』(アイ アール ディ-企画, 32-35、 紀伊國屋書店 、1998.2)。

第1巻第1号/昭和16年12月号から第2巻第7号/昭和17年7月号までの7冊に小松(内海)は寄稿はしていない。
第2巻第8・9合併号/昭和17年8・9月号  内海伸平「太宰治論」
第2巻第10号/昭和17年10月号       内海伸平「中野重治論」
第2巻第11号/昭和17年11月号       内海伸平「小林秀雄論」
第2巻第12号/昭和17年12月号       内海伸平「広津和郎論(一)」
第3巻第1号/昭和18年1月号        内海伸平「岩野泡鳴断片」
                     内海伸平「我が愛読の評論」
第3巻第2・3合併号/昭和18年2・3月号 内海伸平「泡鳴と自然主義(承前)」
第3巻第7号/昭和18年7月号        内海伸平「「小説神髄」点検」
第4巻第2号/昭和19年2月号/終刊      内海伸平「泡鳴論 その三」
なお、この復刻版は数号が欠けており、他にあるかも知れないが確認できたのは上記の9作品、いずれも小松伸六の筆名・内海伸平の論考である。いま、「太宰治論」は、『太宰治全集』第6巻、1998年、筑摩書房)に再録され、容易に読むことができるが、いずれその内容については詳しく触れたい。それにしても、昭和17年の27歳のときに、「中野重治論」「小林秀雄論」などを書き、特に2年もの間、岩野泡鳴について論じていたことに驚かされる。これらは、戦後の文芸評論家としての礎石になった仕事であったに違いない。なお、戦後の第二次、第三次、小松伸六が自ら主宰した第四次、第五次については順次触れていきたい。

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第2巻第8・9合併号/昭和17年8・9月号  内海伸平「太宰治論」がある。