小松伸六ノート④ 小松伸六と『赤門文學』 その三

第四次『赤門文學』と小松伸六

 

再び『日本近代文学大辞典』からの引用だが、「第四次は、昭和30・4~33・12.全10冊。編集は小松伸六。赤門文学会発行。復刊第1号に掲載の駒田信二『瓶の中の世界』はラジオ・ドラマ化され国際放送コンクール、イタリア賞を受賞。ほかに山田昭夫による本庄陸男遺稿の紹介、新保千代子の『犀星ききがき抄』の連載もある。」。これが一般的な第四次『赤門文學』への評価である。本来ならば、この第四次『赤門文學』の前に、小松伸六が金沢在住時代(昭和21~28年)に深くかかわった『文華』『北国文化』に触れなければならないが、これらについてはあとで触れたい。

小松が、金沢大学から高崎市立経済短期大学に移ったのが昭和28年4月、2年後の昭和30年4月から東京の立教大学講師に就任している。久しぶりに東京に戻った小松伸六がまず始めたのは、第四次『赤門文學』の発行であった。昭和30年4月に復刊第1号を赤門文学会(世田谷区玉川奥澤町の小松方)から出している。このころ小松伸六は、昭和27年7月刊の刊行の『昭和文學全集17 大佛次郎集』(角川書店)「解説」、30年6月には深田久弥『親友』(角川文庫)の「解説」を手掛けるなど、文芸評論家として歩み始めたころであった。

昭和30年4月発行第1号の目次を見ると、最初に駒田信二「瓶の中の世界」、そして元金沢大学時代の学生だった川端柳太郎の「時間と小説」、金沢で出していた「北国新聞社」の記者で東京に移っていた加藤勝代の創作「馬のにほい」(芥川賞候補になった)がある。評論は、小松伸六・内海伸平・佐伯彰一の三人名前で「伊藤整の方法」が載っている。小松は本名と筆名で書いているが自らが主宰する同人誌としての許される仕事であろう。なお、この第四次『赤門文學』は、同人の岩田治喜(岐阜県羽島市)の経済的援助があって刊行された。

第2号は、昭和30年6月発行、佐伯彰一・高見裕之・小松伸六「石川淳の方法」がある。同誌に、金沢生れの水芦光子の「米と花の小さな記録」などもある。小松の「編集後記」によれば、この2号まで一人でやったらしく、次号からの編集委員は「平田次三郎駒田信二佐伯彰一、加藤勝代、小松伸六が当分その任にあたる」とある。

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第3号は、昭和30年10月発行、水芦光子の創作「火をつけにきた男」、佐伯彰一・小松伸六「武田泰淳の方法」、小松伸六の「編集後記」がある。          

第4号は、昭和31年3月発行、北海道生まれの作家本庄陸男(ほんじょう むつお、1905~1939)の遺稿「貧しい夫婦」がある。解説は札幌生まれの日本近代文学研究者山田昭夫(1928~2004])、小松伸六の従弟で北海道大学を昭和26年に卒業、東京大学大学院に学び28年に札幌に戻っている。小松は「編集後記」に、「本庄陸男の遺稿は山田清三郎夫人(もと本庄氏の夫人)の好意によるものであるが、一読していただきたい。私一個の好みからいえば〝石狩川〟より〝貧しい夫婦〟の方がはるかに好きなのである。次号にも遺稿を載せてゆきたい」とある。この号に小松伸六は、評論「武田泰淳の業について」を書いている。          

第5号は、昭和31年6月発行、小松伸六の「文学の牙―室生犀星芥川竜之介」、「編集後記」を書いている。

第6号は昭和31年11月発行。この号の「ぷらうでるん―同人雑記」に小森六郎「同人紹介」があるが、「以下は同人紹介の私の架空旅行とおもってよんでいただきたい」と『赤門文學』同人たちとの様々な旅行記を書いている。これは明らかに小松伸六が筆名「小森六郎」として書いたものであろう。駒田信二との山形への旅の回顧、井上靖と同人の加藤勝代、福田宏年の4人で井上の故郷伊豆湯ヶ島への旅、文中には「井上家については内海君が書くので割愛する」ともある。その後岐阜、福井、金沢を巡る旅などが自叙伝風に記されており、間違いなく小松が書いたものに違いない。ただし、福田宏年による詳しい井上靖年譜(『増補・井上靖評伝覚』1991年、集英社)には、このことが記されておらず、やはり小松伸六の「架空旅行記」であったかも知れない。そしてこの号に、筆名・内海伸平で「作家以前の井上靖―「あすなろ物語」について」、本名・小松伸六で井上靖の「「孤遠」の世界」を書いている。

第7号が昭和32年3月に発行されたが、「編集後記」を福田宏年が書いている。そこに「二月二十六日に、小松伸六のお父様が、急に病革つて、小松さんは急遽北海道の釧路へ帰られた」とある。そして、「先日、北海道の小松さんから便りがあったが、父上の看病の間をさいて、釧路に住んでいる「挽歌」の原田康子さんに会ったが、話をする間もなく、スクーターの迎えが来て、病勢常ならぬ病床へ呼び戻されたとか。病床の父親のことについて、北海道から、原稿をいただいたのを、「厳父抄」として、本号に掲載した。」と書いている。小松は、釧路の父危篤の報に急遽帰郷、「死を待つている父の枕頭でこれを書き流した」と最後に「三月四日午前二時」と日付が入った父伝三の生涯を書いた「厳父抄」を『赤門文學』に寄せている。父伝三が亡くなったのは4月1日ともいわれているが、小松伸六はこのあと二度ほど帰郷、原田康子石川啄木と縁があった近江じん(小奴)、小山操(旧姓梅川操)と会ったと、別なところで書いている。なおこの第7号から、大きな反響を呼んだ新保千代子の「犀星ききがき抄」の連載が始まっている。

昭和32年6月発行の『赤門文學』第8号には、小松伸六の作品もなく「編集後記」は福田宏年が書いているが、やはり父の死の直後で、編集に手が回らなかったと思われる。

第9号の昭和32年11月、本庄陸男の遺稿「妻におくる書」、山田昭夫の「「妻におくる書」の周辺」、小松伸六は「歴史小説ノート―井上靖論断片」「編集後記」を書いている。

なお小松は、この昭和32年の『文學界』7月号にはじめて「同人雑誌評」を書き、原田康子の「挽歌」などに触れている。その後、8、9月号にも「同人雑誌評」を寄せ、以後、久保田正文駒田信二・林富士馬とともに「同人雑誌評」を昭和56年まで続ける。また、多くの文学全集への解説、月報などの連載、新聞、雑誌などからの原稿依頼が多くなる。

この多忙さのためか、第10号が出たのは、1年後の昭和33年12月である。なお、この第10号には、『文學界』で新人賞をもらった城山三郎が「鳩侍始末」で、北海道根室の中沢茂が「応接室」で同人として初めて寄稿している。小松の作品はないが、「編集後記」に、この1年間の状態を記し、「これではどうにもならないので、第四次にあたる「赤門文学」もいちおう解散するのがいいのではと考えている。理由は原稿が集まらないこと。」と書いているが、同人たち、そして自らの多忙さのためか、第四次『赤門文學』はこの第10号を持って、長い休刊状態に入ってしまうのである。