小松伸六ノート⑤ 小松伸六と『赤門文學』 その四

第五次『赤門文學』と小松伸六

 

昭和33年12月の第10号で休刊になっていた第四次『赤門文學』、その2年後の昭和35年4月、第五次『赤門文學』復刊第1号として刊行された。小松は、「編集後記」に「十号まで出した第四次赤門文学が昇天したのは一昨年の十二月、クリスマスのくる前だった。みんな忙しくなって原稿が集まらなかったのが、最大の理由だったと思う。(中略)たまたま昨年のくれ、石田君たち若いひとたちから、また出しませんか、とすすめられ、あわてて原稿を集めてみたのがこの復刊第一号である。」とある。創刊号には、小松が評論「クラウス・マンはなぜ死んだ!」がり、最後に「ドイツ自殺作家論・その一」と付記している。そのほか、若い人たちの評論、翻訳、そして吉村謙三の創作「白い夏」が載っている。この「白い夏」は、第43回芥川賞の候補となった。

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第2号は、昭和35年10月に発行、小松は「編集後記」しか書いていないが、「編集同人は、駒田信二、加藤勝代、福田宏年、平田次三郎、小松、編集事務は石田善君ということになった。」とあり、第三、四次からの同人が名を連ねている。この号には北海道の木野工の創作「紙の裏」が載っている。小松は、「木野君はあたらしい同人で、北大の応用科学出身、芸者小説を書かすと、じつにうまいひと…」(「編集後記」)と書いているが、これが、第44回芥川賞候補作となった。

第3号は、昭和36年5月に刊行され、小松伸六は「ドイツ自殺作家論その2/シュテファン・ツヴァイク―その<死>について」を書いている。「編集後記」は無記名だが、明らかに小松の筆、「やっと復刊三号になったわけだが、二号の木野工君の「紙の裏」が芥川賞候補になり、『文藝春秋』の本紙にも転載されるとは思わなかった」とある。小松が主宰する『赤門文學』からは、多くの芥川賞候補作が生まれていたのである。

第4号は、1年近くたった昭和38年4月に発行されているが、「吉村謙三追悼特集号」となっているが詳細は不明である。吉村謙三は、昭和3年(1928年)愛媛県松山市生れ、東京大学文学部社会学科卒で、小松の『赤門文學』には、第四次の第九号から同人として参加していた。『日本近代文学大辞典』には、「なお最終号は、ひにくにも「吉村謙三追悼特集号」となり、戦中戦後を経た長命の同人誌の終末となった」とある。

小松が同人として参加していた第一、第二次、そして自ら自宅を赤門文学会(世田谷区玉川奥澤町の小松方)として刊行してきた『赤門文學』は、昭和38年4月もって終止符を打つのである。このとき小松は47歳、文芸評論家としての本格的な出発の年でもあった。