小松伸六ノート ちょっと寄り道②

『赤門文学』同人、福田宏年のこと

 

*8月5日、直木賞研究家のK氏より、福田宏年の妻について貴重なご教示をいただいた。一文の文章を訂正する。 

昭和30年4月に刊行された、小松伸六主宰の第四次『赤門文學』の同人であった福田宏年(1927~1997)について、気になって仕方がない事柄がある。フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』に、「井上靖の娘婿」、1965年(昭和40年)に、「岳父の井上靖と共にシルクロードの旅を行った」という二つの記述である。これは全くの誤りである。

福田は、昭和27年に東京大学文学部独文科を卒業、小松の12年後輩にあたり、年齢は13歳違う。昭和28年に茨城大学講師、30年には小松が勤める立教大学に講師になっている。2人が出会ったのはこの頃で、小松が第四次『赤門文學』の同人に誘ったのだろう。

小松は、作家井上靖芥川賞受賞した昭和25年、金沢から北国新聞社の依頼で毎日新聞社を訪ね、初対面を果たしている。27年6月には、井上靖文藝春秋社の講演会で金沢へ訪れ、深田久弥北国新聞の加藤勝代らと市内の料亭で会い、小松が立教大学の講師になったあとの昭和31年には井上靖『楼門』(角川文庫)の「解説」を書き、32年4月刊行の『井上靖長篇小説選集 第1巻』(三笠書房)に「解説」を寄せるなど、小松と井上靖は親しい間柄であったことがうかがえる。小松と井上靖の関係についてはあとで詳しく触れる予定。

さて、そんな関係で福田宏年は、小松を通して井上靖と知りあい、昭和33年7月には、井上靖、瓜生卓造、三木淳、そして小松伸六らと穂高に登山旅行などを重ね、井上靖論などを書き、のちに「井上靖の研究家で、良き理解者」と言われるようになるのである。

井上靖には2人の娘がいるが、井上の詳しい年譜を見ても、それぞれ福田ではない人と結婚しており、「井上靖の娘婿」はあり得ない。『ウィキペディアWikipedia)』には、その根拠として『増補 井上靖評伝覚』(集英社)(1991年)を挙げている。その著を何度調べてもそのような記述はない。あるとすれば次の記述を誤用したのであろう。

井上靖の次女の結婚式の時、スピーチに立った四高時代の友人が「井上君が柔道をやっていたようだが、余り強くはなかったらしい」と言った時、あとで父親の挨拶に立った井上は、「柔道が強くなかったと言われるのは甚だ心外です」と、温厚な井上には珍しく、多少色をなして駁したことがある”

これは昭和47年6月の次女佳子さんの結婚式のことだが、福田宏年が出席していることがわかる。ちょっと時代が戻るが、『現代日本文学アルバム第15巻 井上靖』(学習研究社)に井上靖の長女幾世の親族がそろった昭和37年3月の結婚式の集合写真がある。そこに親族の一人として福田宏年らしき人物が写っている。これはどういうことか、ますます謎が深まってくる。『現代日本文学アルバム第15巻 井上靖』には、昭和36年の野間文学賞祝賀会の席、昭和40年5月の井上靖シルクロードへの旅に同行する写真などに、福田宏年が写っている。『増補 井上靖評伝覚』の記述に戻れば、井上靖の母やゑが、昭和48年11月22日伊豆湯ヶ島で亡くなった。「その葬儀には私も参列したが、夕刻熊野山の井上家代々の墓地に葬られるとき、しろばんばがあたりを飛び交い、その白い綿玉が夕陽を受けて美しく輝いていたのが印象に残っている」と、11月24日の葬儀に出席し、その様子を書いている。つまり、福田は井上靖の親類であることが、この一文からはっきりする。

では、福田と井上靖とはどんな縁戚関係なのだろうか。井上靖の妻ふみの『私の夜間飛行』(平成5年、潮出版社)の「奇遇」と題した一文に、「私と長女、私の妹とその長女の四人とも京都の吉田山生れである」とある。そして井上靖の長女浦城いくよの『父井上靖と私』(2016年、ユーフォ―ブックス)には、母ふみの父は、解剖学者として有名な足立文太郎であり、ふみが井上靖に嫁いだこと、戦後、井上靖とふみが住んでいた京都の吉田山の家に「母の妹大谷一家四人も疎開先の婚家から戻ってきた」とある。また、昭和32年に移った世田谷区世田谷の家には「お手伝いさん二人、家族六人、同居の私たちの従妹と九人家族」と、次女の黒田住子さんの『父・井上靖の一期一会』(2000年、潮出版社)にあるが、井上家族と一緒に住んでいたという従妹が、井上家に出入りしていた福田宏年と出会っていた可能性もある。

福田の随筆集『ウィーンの錠開け屋 出会いの三十有余年』(沖積舎、1995年)には、「私の家内は京都の生まれだが、祖父が伊豆湯ヶ島の出身だったので、今も湯ヶ島には親類縁者が何人かいる」とある。つまり足立文太郎(あだちぶんたろう、慶応元(1865)年~昭和20(1945)年)は、伊豆国田方郡上狩野村(静岡県天城湯ケ島町)生まれで、福田宏年の妻の祖父にあたる。これはどこにも資料がなく確定はできないが、京都生まれで足立文太郎の血を引く、井上靖の姪である人物と福田が、昭和30年代に結婚したと考えられる。

直木賞研究家のK氏から、福田宏年な亡くなった毎日新聞の訃報(1997年6月12日夕刊)に、「喪主は妻弥生(やよい)さん」と書いてありました。と連絡があった。さらに弥生さんは、平成2年9月18日、83歳の井上靖井上靖文学碑の除幕式と旭川市開基百年記念式典に出席するためふみ夫人と北海道を訪れており、「井上靖旭川」展(平成25年)の内容を伝えるHPに「除幕式(九月十九日)には、関係者、市民あわせて約二五〇名が集まった。秋晴れのなか、主役の靖、ふみ夫人、長女の浦城幾世さん、姪の福田弥生さん」がいたと書かれているという。そう、福田宏年の妻は、間違いなく井上靖の姪「弥生さん」であったのである。しかし、「京都の生まれだが、祖父が伊豆湯ヶ島の出身」と福田がいうだけで、井上靖とどのような系譜のなかにいるのかは、まだ不明である。

こんな二人の関係を探ると、小松伸六が井上靖の姪と福田宏年の結婚のきっかけを作ったのではないかと想像するのだが、福田宏年は『ウィーンの錠開け屋 出会いの三十有余年』のなかで、深田久弥と引き合わせてくれたのは小松伸六と書くが、井上靖との関係は全く触れていない。福田宏年は、本当に奥ゆかしい人物であったのであろう。

 

 

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