小松伸六ノート⑦ 大佛次郎と小松伸六

大佛次郎と小松伸六 

大佛次郎(おさらぎ・じろう 1897~1973)は、『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、童話などまでを幅広く手がけた作家で、昭和39年には文化勲章を受けている。小松伸六が大佛の小説とで出合った中学時代を、「私を再発見させてくれた本」(『帰郷』旺文社文庫、昭和41年)に書き残している。

 

「私は北海道も北の果て、釧路にうまれ、中学時代までここでおくったのだが、中学生のときに兄の買ってきた「ごろつき船」(昭和四年)を徹夜して読んだのが大仏さんとの出合いである。それがおもしろく、「照る日曇る日」(大正十五年)「赤穂浪士」(昭和二年)などを、町中の本屋をさがして買い求め、読みふけってことを思いだす」

 

大佛次郎の作品を読み続けていた小松は、昭和28年7月、『昭和文學全集17 大佛次郎集』(角川書店)に、「大佛次郎は現代の日本文學の一つの良心だといつても決して云ひすぎにはならないと思ふ」と書き出された「解説」を寄せる。小松にとって「文学全集」に「解説」を書く初めての仕事であった。その年、北陸の金沢大学を辞め4月から高崎市経済大学に勤めていた38歳の時であった。それ以後、大佛次郎の人と文学について語り続ける。

東京の立教大学に移っていた昭和35年7月には、岩波書店から出ていた雑誌『文学』に「大仏次郎論ー鞍馬天狗を中心にー」と題した、優れた論考を寄せている。これによって、戦後に大佛次郎の文学を語る第一人者として認められたようである。昭和39年1月には、大佛次郎赤穂浪士』(下巻、新潮文庫)の解説を書く。そして、この年10月には『少年少女現代日本文学全集33 大仏次郎名作集』(偕成社)を編み、「この本には、大佛次郎の作品から若い人たちに向いたもの、いろいろな面からえらんで収めました」(「はじめに」)と、少年少女にために、大衆小説、現代小説、童話、随筆を選び、「大佛次郎の人と文学(解説)」も書いている。

昭和40年4月には、『現代の文学5 大佛次郎集』(河出書房新社)の月報に「大佛次郎の文学」寄せ、この年12月刊の『ジュニア版日本文学名作選』(偕成社)第27巻大佛次郎「ゆうれい船(上)」、第28巻「ゆうれい船(下)」に、それぞれ「この本について」「作者と作品について」を書いている。

昭和43年4月刊の『日本文学全集54 大仏次郎集』(集英社)には、「作家と作品 大仏次郎」を書いているが、その論考は32ページにも及び、1冊の本にもなるような、小松伸六の「大佛次郎論」に集大成になるものであった。そして、昭和46年1月刊の『ジュニア版日本文学名作選 第53巻 鞍馬天狗』(偕成社)に「解説」を寄せたが、ここでも、「そのころわたしは、北海道の北のはての釧路という港町の中学生でしたが、『鞍馬天狗』を愛読、そして四十年後の現在読んでも、内容も文章もすこしも古くはありません。『角兵衛獅子』などは少年少女の古典といってもいいのではないでしょうか」と書いている。昭和51年5月に刊行された大佛次郎『帰郷』(旺文社文庫)にエッセイ「私を再発見させてくれた本」を寄せている。

大佛次郎は、『朝日新聞』に『天皇の世紀』執筆の連載を続けていたが、これが絶筆となり昭和48年4月30日に76歳で死去した。小松伸六は、『週刊読書人』5月21日号に大佛次郎追悼「精神的貴族・大佛次郎の死・日本に生まれた知識人の“悲劇”」(未見)を寄せている。

昭和52年12月刊『筑摩現代文学大系53 大佛次郎海音寺潮五郎集』(筑摩書房)には、「人と文学」を書く。昭和61年10月発行の『神奈川近代文学館』第14号「大衆文学展特集〉」には「鞍馬天狗」(未見)を書き、同月に神奈川近代文学館で開催された展覧会の図録『大衆文学展 よみがえるヒーローたち』(神奈川文学振興会)に「鞍馬天狗」を寄せた。

中学時代に出合い、それ以後大佛次郎の作品を読み続け、大衆文学から現代文学まで幅広い文芸評論家として歩んだ小松伸六にとって、大佛次郎は大きな文学の先輩であったに違いない。

なお、古書店に「鞍馬天狗記念館」(400字詰4枚)の原稿が出回っているが、いつ書いて、どこに発表したものかわからない。

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小松伸六が解説などを寄せた、大佛次郎の文学全集、文庫、雑誌など。