小松伸六ノート⑩   深田久弥と小松伸六

深田久弥と小松伸六

 

小松伸六が、『日本百名山』の著者として知られる深田久弥(1903~1971)と出会ったのは、深田が、昭和21年夏に中国大陸から復員し郷里石川県大聖寺町(現加賀市)に移り住んでいたころであった。当時金沢大学の教師をしていた小松は、深田との出会いを次のように書いている。

 

「深田さんとのおつきあいは、敗戦後の石川県大聖寺町(いまの加賀市)からはじまる。私はそのころ金沢で教師をしていたのだが、そこから出ている「北国文化」という地方文芸総合誌の編集を手伝い、深田さんには「北国文化賞」の小説部門の選者になることをおねがいにあがったことから親しくしていただいた。」(「深田さんのこと―澄み切った人だった」)

 

小松は、深田との出会いを『北国文化』と言っているが、正確にはその前身の『文華』の時代であったようである。金沢時代に親しかった俳人沢木欣一について書いた「金沢時代の沢木欣一」には、次のようにある。

 

「私は教師をしながら、北国新聞社の「文華」、のちに「北国文化」と改題された、この地方文芸総合誌の編集の手つだいもやっていた。(中略)今は山の方で有名だが、深田久弥氏などと非常に親しく、毎月、一回や二回は集まって、酒をのみ、文学むだ話をつづけ、深田宅で深夜の句会をはじめることもあった。」(「金沢時代の沢木欣一」)

 

深田久弥が、はじめて『文華』に登場するのは昭和23年7月号の「作家深田久弥を囲む座談会」で、小松、沢木欣一、西義之、加藤勝代が出席、「太宰と〝斜陽〟」などについて語り合っている。翌昭和24年6月号には「対談・地方生活と文学」があり、深田久弥と山倉政治の二人の対談の司会を小松伸六が勤めている。翌昭和23年5月が『北国文化』に改題され、11月号に深田久弥、森山啓、小松らが出席した「わが読書遍歴・座談会」が載っている。12月号には、記事「新人・旧人深田久弥、小松伸六」があるが未見である。

昭和25年3月、小松伸六は筆名小森美千代で『宮廷秘歌―ある女官の記―』を刊行している。その帯に、深田久弥が「……この筆者は、水々しい女性的な筆つきのなかに、仲々鋭い批判をもち、何物にも捕はれない自由な観察力を持つている。ここが世に流布する際物的な曝露ものと異なる所であつて、敢て世に薦める所以である……」という一文を寄せているが、「水々しい女性的な筆つき」とあるのは、小松伸六の筆と知ってのことだろう。深田は、昭和26年3月末に金沢に移り住んでおり、小松は毎月ように会っては、酒をのみ文学について語り合い、深田宅での句会もあったようである。

昭和27年6月、井上靖文藝春秋社の講演会で金沢へ訪れているが、その時、深田久弥北国新聞社の加藤勝代、小松伸六らと市内の料亭で会っている。井上靖は、「深田久弥氏に初めてお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃、金沢に於いてであった。小松伸六氏がまだ金沢大学に居られ、筑摩書房の加藤勝代氏が北国新聞の記者をされていた頃である。(中略)とにかく金沢の料亭で、小松、加藤両氏らと一緒に深田さんにお目にかかったのである」(「深田久弥氏と私」)と、深田との初対面のことを書き残している。

小松伸六は昭和28年4月から高崎市立大学に移り、30年4月から立教大学講師として勤めている。昭和30年6月、深田久弥『親友』(角川文庫)に「解説」を書く。小松が文庫の解説を書いたのは初めてであった。そこに「深田久彌氏の小説はどれも裏側まで澄んでゐて清々しいしいのである」と書いている。翌昭和31年4月には、深田久弥『贋修道院 他二篇』(角川文庫)の「解説」(未見)を書いている。

そして、昭和31年11月刊『赤門文学』第6号に、小松の「同人紹介」(筆名・小森六郎)があり、こんな一文がある。福井の「東尋坊へは、金沢時代一度来たことがあった。若い文学少女と二人だった」と、その少女と東尋坊に行きそこで語り合ったことを書いている。

 

「そのことを深田(久弥)さんが、ユーモラスに「小説新潮」か何かに書いた。私はそのとき初めて小説の主人公になった。英語の先生が教えてる子になんとなく告白し、なんとなくことわれるといつたものだつた。そうして、その号の「小説新潮」は金沢でうりきれたという。私の愛する金沢の町はそんなにせまいところだった。」

 

小松をモデルにした小説があるというが、どのような作品であったかわからない。

深田久弥は、昭和31年8月、一家をあげて上京している。深田の上京後も親交があったらしく、昭和34年夏、深田久弥が釧路の小松の実家に滞在している。その後斜里岳や阿寒の山を登り、「斜里岳」(『世界の旅・日本の旅』、昭和35年2月)を書く。

 

「釧路は活気のある町だった。(中略)ここは、私の友人で、独乙文学者であり文芸評論家である小松伸六君の生地、彼のお祖父さんは北海道開拓時代の成功者の一人で、今も目抜きの通りに盛大な店が営まれている。小松君からの連絡で、私たちはその御一族からあたたかく迎えられ、釧路の一日は町見物に費やされた。啄木の歌碑がある丘に立つと、港がすぐ眼下に拡がり、北方遥かに阿寒の山々が見えると教えられたが、惜しくもそれは夏雲に隠されていた。」

 

深田久弥の名著『日本百名山』に、「斜里岳」「阿寒岳」が収録されているが、その旅の所産であった。深田は、昭和46年3月21日 - 登山中の茅ヶ岳にて脳卒中で急逝、昭和46年『讀賣新聞』三月二十三日夕刊に、深田久弥への追悼文「深田さんのことー澄み切った人だった」を寄せる。そこに「「深田さんは東京ぎらいであった」と、深田との出会いから「私は深田さんによって、そのときはじめて小説家というものを知った」と回想している。そして、『北國新聞』三月二十八日にも、深田久弥追悼文「深田さんをしのぶ」を寄せたという(未見)。

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深田への追悼文、『北国文化』の座談会、深田の「斜里岳」、解説を寄せた深田の『親友』(角川文庫)など