小松伸六ノート⑭ 城山三郎と小松伸六

城山三郎と小松伸六

 

経済小説の開拓者といわれ、いまでも多彩な作品は多くの読者をひきつける城山三郎(1927~ 2007)。城山は、小松伸六の13歳下だったが、その作家としての出発から、不思議な長い交友関係にあり、城山文学を語り続けた。小松伸六は、城山三郎との出会いを次のように書く。

 

「城山さんは、醒めた人、真面目な方―それが私の第一印象だった。文学界新人賞を受けた「輸出」(昭和三十二年)の前に会った印象である。(中略)私が城山さんを存じ上げたのも、氏と私の共通の、詩人であり英文学者永田正男氏の紹介である」(「硬派の城山さん」)

 

永田正男(1913〜2006)は、アメリカ文学者で詩人であり、戦後は名古屋で城山三郎が参加した「くれとす会」主宰していた。小松は東京帝国大学大学院時代、昭和17年に刊行された『赤門文学』(第2巻第8・9月合併号/昭和17年8・9月号)に内海伸平のペンネームで「太宰治論」を書いたが、その号に永田正男は詩「独楽」を寄せているから、かなり早くから面識があったと思われる。

戦後の昭和30年、小松伸六は、第4次『赤門文學』を刊行する。永田は同人として参加し、11月発行の『赤門文学』3号に詩「殺生の戒め」、4号に詩「眞冬の夜の夢」、6号に詩「わが少年期」を寄せ、そして昭和32年11月発行の9号に詩「わが青春期」を寄せている。

城山三郎が、永田正男の推薦で『赤門文學』の同人になったのはこのころと思われ、城山は、この11月発行の9号に「地方に居て」という随筆を寄せている。「永田氏をはじめ四人の仲間で私たちは読書會をつくり、すでに三年以上にわたって、一月も欠かすこともなく、一人も休むことなく、文学の勉強を続けてきた」と、永田正男が主宰する名古屋での読書会「くれとす」について書く。城山は、昭和32年3月に名古屋市千種区の城山八幡宮に転居、ペンネームの城山三郎は、ここに来てから使うようになったという。昭和32年7月、「輸出」で第4回文学界新人賞を受賞、『文學界』7月号に城山三郎「輸出」が掲載され、作家への一歩を踏み始めていた。なおこの号に小松伸六は、はじめて「同人雑誌評」を寄せている。この城山の「輸出」は第38回直木賞の候補となり、この年12月には、神奈川県茅ヶ崎市に転居していた。城山と小松が初めて会ったのはこの頃と思われる。城山は、昭和33年10月発行の『別冊文藝春秋』66号の「総会屋錦城」で直木賞候補になり、34年1月に第40回直木賞を受賞する。

直木賞受賞直前の城山は、1年余りの休刊後に出た昭和33年12月発行の『赤門文学』10号に歴史小説「鳩侍始末」を寄せている。小松は「編集後記」のなかで、「さて十号は新しい同人の小説でかざった。城山君は「輸出」で「文学界」の新人賞をもらったひと。めずらしく歴史小説である」と書く。その数か月後に直木賞を受賞するとは、思いもかけぬ出来事であったかも知れない。以後城山三郎は、経済小説の開拓者となって多くの作品を書き続けて行く。

昭和35年1月、城山三郎『乗取り』(光文社)の出版記念会が銀座東急ホテルで開催された。小松は、吉川英治について書いたなかで「城山三郎氏をはげます会があったときに、吉川さんの話を一メートルもはなれないところで聞くことができた。たまたま、私が城山さんのパーティの司会をやっていたからだ」(「「宮本武蔵」のこと」、『吉川英治全集』月報14、昭和41年7月)と書いている。その時、石原慎太郎や 文芸春秋社長池島信平らが出席していたという。この小説は、横井英樹が起こした「白木屋乗取り事件」がモデルと言われる。この出版記念会に呼ばれていないはずの横井が乗り込んで一席ぶってから帰ったという話は、当時の大きな話題となったが、この出版記念会のことは、城山三郎も「励ます名人」(『吉川英治全集』月報44、昭和44年9月)のなかで触れており、小松も写っている写真が掲載されている。

なお、小松伸六がはじめて城山三郎の文庫に「解説」を寄せたのは、昭和38年11月に出た直木賞受賞作を収録した新潮文庫の『総会屋錦城』だが、その後に確認できただけで6冊、全部で7冊の文庫に「解説」を寄せている。

城山三郎『総会屋錦城』(1963年、新潮文庫)

城山三郎『風雲に乗る』(1972年、角川文庫)

城山三郎一発屋大六』(1973年、角川文庫)

城山三郎『イチかバチか』(1973年、角川文庫)、

城山三郎大義の末』(1975年、角川文庫)

城山三郎『鼠/鈴木商店焼打ち事件』(1975年、文春文庫)

城山三郎『価格破壊』(1975年、角川文庫)

いずれの「解説」も、城山作品の詳しい解説や経歴、人柄などを寄せているが、ロングセラーとなっている作品もあり、いまも多くの人に読み続けられている。ひとつだけ文庫の「解説」から小松の言葉を引くが、『総会屋錦城』(新潮文庫)の解説に、「私は冗談に、氏を「足軽作家」と書いたことがあるが、それはこれからの良心的な作家は、少くとも、調べる、足で書くことを要求されると思ったからである」とある。これと同じような一文が『鼠/鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫)の「解説」に「決して軽蔑して言ったわけではなく、足で書く人、よくしらべて書く作家というほどの意味である」ともある。小松が、城山三郎を「足軽作家」とどこで触れたかはわからないが、一部には誤解されて伝わっていたようで、幾度も触れることとなる。

昭和55年に『城山三郎全集』全14冊が刊行され、小松は、4月刊の『城山三郎全集 第3巻』(新潮社)付録3に「硬派の城山さん」を寄せ、最後にこう記す。

 

「私は直木賞受賞作「総会屋錦城」(昭和33年)の「解説」で「昭和三十年代の日本の文壇に二つの事件があった。一つは松本清張氏を頂点とする推理作家の流行、一つは城山三郎意地を、そのパイオニア(先覚者)とする経済小説の出現である」と書いた。そうした意味もあり、親しくしていただいている私にとって、いま城山さんの全集が出ることは、大変うれしいことである。」(「硬派の城山さん」)

 

親しく交友があった2人であったが、平成18年3月20日、小松伸六は肺炎のため91歳で死去。かつて金沢で関係した『北国文化』の流れを組む『北國文華』が、6月刊の28号で特集「追悼・小松伸六氏」を組み、城山三郎からの談話「作家の背を押す文芸評論家」を載せている。「小松さんとの出会いは私にとって幸運でした」と語り始める。

 

「どういう機縁で小松さんと会ったのか記憶は定かでありませんが、「輸出」という作品が『文学界』新人賞を受賞し、その後、相次いで同誌に作品を発表したことから、このころ『文学界』で同人誌評を担当し始めた小松さんと面識を得たのじゃないかと思います。

小松さんは、私の作品について、ここがいい、ここはむしろこうした方がいいんじゃないか、こういうふうに書く手もある、などと丁寧な読み方をしてくれました。作家の側に立った評をしてくれたのです。私の作品は当時としては目新しい経済小説でしたから、こういうのは小説じゃない、などという評も聞こえてきました。文芸評論家はよく勉強しているので、作家の書くものをあれこれ批評するのはお手のもんなんです。悪い表現を使えば、作家を食い物にして自分の名をあげようとする人もないわけではありません。しかし小松さんはそうではなかった。作家のよい所を取り上げていく人でした。私が小松さんと出会って幸運だったというのはそういう意味です。」(城山三郎(談)「作家の背を押す文芸評論家」)

 

引用が長くなったが、文芸評論家としての小松伸六の人柄について触れている。『赤門文学』時代に世田谷の自宅を訪ねたことも語り、最後に「小松さんのような文芸評論家はもう出ないでしょう」と語る。しかし城山三郎は、翌平成19年3月、小松伸六の後を追うように79歳で亡くなった。

平成16年12月には、『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』(齋藤愼爾編、メタローグ)が刊行され、城山三郎『総会屋錦城』(新潮文庫)に寄せた小松伸六の「解説」が、名解説のひとつとして収録された。

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城山三郎全集』の付録に寄せた小松の「硬派の城山さん」。「解説」寄せた文庫と『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』。城山が『赤門文学』に寄せた「鳩侍始末」「地方に居て」。『北國文華』の城山三郎からの追悼談話「作家の背を押す文芸評論家」。