小松伸六ノート⑯ 水上勉と小松伸六

水上勉と小松伸六

 

昭和36年7月、『雁の寺』で 第45回直木賞を受賞、弱者に向けられた温かいまなざしで数多くの作品を執筆し、昭和を代表する人気作家といわれた水上勉(みずかみ つとむ 1919~2004)。小松伸六は、文芸評論家としてその生涯を見続けていた。

「いま文壇における代表的日本人をあげよといわれたら、私はちゅうちょなくそのひとりに水上勉をあげる。水上勉は日本文学の伝統に流れている日本的叙情の具現者であり、表現者であるからだ。もう一つ限定すれば、水上勉はもしかすると裏日本の代表的作家でもあるかもしれない。私は水上勉を論ずるとき、これまで氏を湿度的作家といってみたり、寒流型作家といったのもそのためである。」

これは小松が、昭和53年7月刊の『別冊新評・水上勉の世界』に寄せた「叙情による認識と表現 水上勉入門」の最初の言葉である。福井県大飯郡本郷村字岡田に生れた水上勉を論じたものだが、自ら、日本海に面した新潟、金沢で過ごしたこともある小松は、「私事になるが、私は海氷る北の果てといわれる釧路生れの北海道育ち、高校時代は新潟、戦後八年は金沢暮らし、母は福井県武生在の出身なので、日本海の人と自然は多少わかる。」と書いている。同様のことを、昭和55年3月臨時増刊号『面白半分』の「特集・かくて水上勉。」の「水上勉断片」にもこう書いている。

「水上氏はたえず生まれ故郷の若狭を小説にも書き、話もする。しかも福井県人とはあまり言わないようである。私事になるが私の母も〝越前生れ〟とよく言っていたが、貧しさから祖父母と札幌に流れてきた。父は尾道広島県)からのお金ほしさの流れ者である。清教徒でもなければ、理想をもって新天地へきた開拓者でもない。二人は〝化外の地〟だった明治の北海道へ流れてきた。のちに父は一応の成功者となり、女遊びをしつづけた。好悪の念がはげしい母が、それによく堪えつづけてきたと思う。そして忍苦の一生を終えた。」

小松は、水上勉が小説のなかに描く女性の姿に、母を重ねていたのである。その小松が、最初に水上作品に触れたのは、直木賞を受賞直後の昭和36年7月21日の『産経新聞』で、そこに「松本清張水上勉」(未見)を寄せている。当時、水上が当時社会派推理小説で注目されたというから、松本清張とともに推理作家のひとりとして書かれたものだろう。その後小松は、『毎日新聞』昭和38年11月19日に「大衆小説ノート」を寄せ「銀の庭」について、『サンデー毎日』昭和39年6月14日号には書評「高瀬川」を寄せ、水上文学を語り続ける。

昭和38年12月号の『映画評論』に小松は、「「越前竹人形」と「五番町夕霧桜」」(未見)を寄せている。この年10月、水上勉原作による「越前竹人形」が吉村公三郎監督のよって映画化、11月には「五番町夕霧桜」も田坂具隆により映画化されている。映画評論も手掛けていた小松は、映画化された作品を観て一文を寄せたのだろう。なお、翌年1月号の『映画評論』、吉村公三郎の「小松伸六氏へ」(未見)が載っているが、詳しくはわからない。

昭和43年六月刊『日本短編文学全集38 岡本かの子武田泰淳水上勉』(筑摩書房)に、「桑の子」「棺」など四篇が収められたが、小松は「鑑賞」に、「短篇の名手といってもいい」と書く。昭和44年9月には、『日本文学全集40 有吉佐和子松本清張水上勉北杜夫瀬戸内晴美司馬遼太郎』(新潮社)が刊行され、小松は「解説」を寄せ、「現在は、失われていく日本の伝統の美しさを追求した作品を発表している」と、水上が、次第に純文学的な作品を書き始めることに触れている。

小松は、昭和47年1月刊の『現代日本文学大系89 深沢七郎 有吉佐和子 三浦朱門 水上勉集』(筑摩書房)に「水上勉の文学」(未見)。昭和50年12月刊の『昭和国民文学全集29 水上勉集』(筑摩書房)月報に「雑談的印象記」(未見)を寄せ、水上勉の人と文学を語り続ける。

昭和51年6月から『水上勉全集』(全26巻 中央公論社)の刊行がはじまり、同年6月刊『新刊ニュース』№311号に、水上勉と小松の対談が載る。未見だが、『風を見た人』(第5巻、昭和51年10月刊、講談社文庫)の解説に、その時の様子を書いている。「たまたま私は今年、水上さんと対談する機会を得た。水上全集二十二巻が、この六月(昭和五十一年)中央公論社から刊行され、それについて「新刊ニュース」(三一一号)で対談することになったからである。」とある。その対談は、「仕事は山にこもってしており、東京へは雑用で出てくるのです。今日も山からおりてきたばかりでで、まだ家にも帰っておりません。電話はかけてありますが……」と、はじまったようである。水上のいう「山」とは、軽井沢の山荘のことという。「以下は水上さんの話」として、水上が語る、体の不自由な娘さんの話の長く綴っている。

小松は『流れ公方記』(昭和52年5月刊、集英社文庫)の「解説」のなかで、「私は氏と二度ほど席を同じくしたことがあるが、このひとほど人の気持にふれてくるメンシェン・ケナー(人間通)を私はほかにしらない。」と書いているが、最初に会ったのは、「多分雑誌『旅』の座談会で、安岡章太郎氏もそばにいたと思う。それが水上氏との初対面だが、話に描写があり、手に何か表情があるのではないかと思うほど、うまく手を使うので感心したおぼえがある。座談の大家である」(「水上勉断片」)と書いている。これは、昭和42年1月号『旅』に載った、安岡章太郎水上勉と小松による、紀行文学賞受賞作品発表の座談のことだろう。 そして小松は、昭和53年1月刊の『水上勉全集 第十七巻』(中央公論社)月報20に「寒流型作家」を寄せる。ここでも『新刊ニュース』での対談での、「紙巻たばこ」のエピソードを残している

そしてこの年7月刊の『別冊新評・水上勉の世界』に、「叙情による認識と表現 水上勉入門」を寄せ、2年後の昭和55年『面白半分』三月臨時増刊号「特集・かくて水上勉。」には「水上勉断片」を寄せ、水上勉の人と文学を「裏日本の作家」として詳しく語る。ここに、小松が、水上勉の文庫本に「解説」寄せた確認できたものの一覧を掲げる。

水上勉『銀の庭』(昭和41/1966年、角川文庫)

水上勉『湖笛』(昭和43/1968年、角川文庫)

水上勉有明物語』(昭和45/1970年、角川文庫)

水上勉西陣の女』(昭和47/1972年、新潮文庫

水上勉『北国の女の物語』(上巻、昭和50/1975年、講談社文庫)

水上勉『風を見た人』(第五巻、昭和51/1976年、講談社文庫)

水上勉『流れ公方記』(昭和52/1977年、集英社文庫

ここで、小松の文庫「解説」について詳しく触れないが、『流れ公方記』にある、「私は氏と二度ほど席を同じくしたことがあるが、このひとほど人の気持にふれてくるメンシェン・ケナー(人間通)を私はほかにしらない。」という言葉だけ引用したい。

昭和63年4月には、『昭和文学全集第25巻(深沢七朗・瀬戸内晴美有吉佐和子水上勉曾野綾子)』(小学館)に「水上勉・解説」を寄せ、「もしかすると水上さんは代表的日本人のひとりではないかと思う。政治家、知識人、学者というエリート・コースの人ではなく、いわゆる庶民的な日本人の代表という意味においてだ」と書く。そして、「岐阜県羽島の旧友(故人)がはじめたボランティア活動のひとつ」である施設拡張の趣意書に水上さんの推薦状を書いてほしいと頼まれる。小松は、「引き受けて下さるかどうかわからない」と思いながら手紙を送ると、「水上さんはすぐさま京都で書かれ、羽島の知人にわたされた」と書いている。小松と、水上の心温まるエピソードである。

平成16年9月、水上勉は肺炎のため85歳で死去する。小松は、文芸評論家として仕事を絶っていた89歳の時である。そして5年後の平成21年9月9日付『朝日新聞』の「天声人語」にこんな一文が載った。筆者は、かつて水上勉からもらった手紙について書く。

「作品やテレビを通して思い描いていた通りの印象を受けた。たたずまいの端正さや静かさと、その奥底にうずくまっている熱情のようなものを感じた覚えがある。『昭和文学全集』(小学館)の解説に、小松伸六さんが書いていた。「私は以前水上文学を、『生活する歌ごころ』と書いたことがある。それは在所の悲しい子守唄であり、放浪生活歌である。また人生遍路の諷詠であり、失われた日本へのエレジーでもある」。簡素で、しかも空疎ではなく深い内実のある、地べたからの発言だという。」

小松は平成18年3月に亡くなっており、この「天声人語」を目にすることはできなかった。

f:id:kozokotani:20210217165606j:plain

水上勉全集 第十七巻』と「月報」、『昭和文学全集第25巻(深沢七朗・瀬戸内晴美有吉佐和子水上勉曾野綾子)』、『別冊新評・水上勉の世界』、『面白半分』三月臨時増刊号「特集・かくて水上勉。」、「解説」寄せた文庫など。