小松伸六ノート  ちょっと寄り道⑤

文芸評論家佐伯彰一とのこと

 

佐伯彰一(さえき しょういち、1922~2016)と言えば、文芸評論家として、日本のアメリカ文学者として、あるいは世田谷文学館館長、三島由紀夫文学館初代館長として知られている。しかし、佐伯の後年の昭和、平成時代に残した多くの業績にスポットライトがあてられ、若い時代の仕事について語られることは少ない。そんななか、小松伸六の残した戦中、戦後の仕事を追うなかで、幾度となく登場するのが、その佐伯彰一である。先日、小松の「佐伯さんのこと―わが芸道の師」が載った、佐伯彰一編『自伝文学の世界』(昭和58年、朝日出版社)をようやく入手することができ、そのなかで2人の深い友情を知ることができた。

「なんて頭の回転の早い学生だろう、というのが、白眥の美少年だった佐伯彰一さんから受けた第一印象、戦前の同人雑誌『赤門文学』を主宰していた平田次三郎さんの紹介で、東横線の都立高校駅(今の都立大学駅)の近くで会ったときのことである。(中略)英文科に席をおいていた彼は、その頃としては珍しくアメリカ文学の作品をよく読んでいたのをおぼえている。同人誌には堀辰雄論を載せていた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)

第一次「赤門文學」については、「主な執筆者に、平田(次三郎)のほか佐伯彰一高橋義孝渡辺一夫上林暁、高見裕之、山岸外史、中野好夫らがいた」(『日本近代文学大事典』)とあるが、昭和17年10月号『赤門文学』に、佐伯彰一堀辰雄論」が載っている。なおこの号に、小松伸六は筆名・内海伸平で「中野重治論」を寄せているから、2人が出会ったのはこのころであろう。その時小松は、東京帝国大学大学院を卒業したばかりの27歳、佐伯は東京帝国大学文学部英吉利文学科2年生の20歳のときであった。「その後、雪の深い信越線国境の関山村に、私の妻の実家をたずねてくれた」ともある。小松は、昭和19年11月に結婚しているが、その前後の話であろう。やがて戦争が激しくなり、二人の交友は途絶える。小松は、昭和21年9月、金沢の第四高等学校(あとの金沢大学)にドイツ語講師して赴任していた。

「戦争がおわったとき、彼の消息を私は知らなかった。ところがある冬、雪のふりしきる午後三時ごろ、彼と金沢大学医学部附属病院の前で偶然に再会。彼は富山高校(旧制)、私は四高につとめていた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)

佐伯は、東京帝国大学文学部を卒業後、予備学生として海軍に入り、戦後は終戦連絡将校として佐世保、鹿児島などで通訳を務め、昭和21年3月から、故郷である富山の富山高等学校の教員になっていた。新制大学の発足は24年5月だから、2人が偶然再会したのは、小松が、四高に勤めていた23年の冬のことと思われる。

「その再会後、親しくなった。彼が金沢にくるときには何度か会い、出来たばかりの民間放送のラジオにもひっぱり出した。彼は天才的語り部、しかも話は面白いのだから、私はただ、「うん、うん」と相づちうっていればよかった。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)  

小松は、昭和24年3月号から『文華』の編集長となっていた(この年5月に『北国文化』と改題)。小松の誘いで、佐伯彰一が『北国文化』にはじめて登場するのは昭和24年4月号(第39号)で、「アメリカ文学の焦点」を寄せている。5月号(第40号)には「民衆の目―スタインベックの報告」、8月号(第43号)には「天皇制と私」を寄せている。昭和25年4月号(第41号)には「二十世紀文学の宿命」、6月号(第53号)には、「オルダス・ハックリスの手紙」、オルダス・ハックリス「佐伯彰一への返事」と、その「あとがき」を寄せている。

その後佐伯は、昭和25年7月から1年間アメリカに留学の州立ウィスコンシン大学に留学している。「彼はやがてフルブライト留学生として渡米。金沢の地元紙が金を出してくれていた月刊誌『北国文化』にアメリカ通信を寄せてくれた。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)とあり、昭和26年1月号(第60号)に佐伯彰一の「アメリカ便り」、3月号に(第62号)「アメリカ便り―エリオットの講演について」を寄せている。

「彼との因縁は更につづく。彼が富山から上京した年、私も偶然上京、駒田信二さんは松江から、福田宏年さんは水戸から出てきたので、私が編集者になり、みんなで同人誌『赤門文学』を復刊した。」(「佐伯さんのこと―わが芸道の師」)とある。小松伸六は、昭和30年4月から立教大学のドイツ語講師になり、その年の4月、第四次『赤門文学』を復刊する。佐伯彰一は、東京都立大学人文学部に勤めていたころと思われる。

4月の復刊『赤門文学』第1号には、小松伸六・内海伸平・佐伯彰一の3人の筆名で「伊藤整の方法」、6月刊第2号には佐伯彰一・高見裕之・小松伸六の3人の筆名で「石川淳の方法」がある。なおこの号の小松の「編集後記」に「ちなみに、編集委員平田次三郎駒田信二佐伯彰一、加藤勝代、小松伸六が当分、その任にあたることになった」とある。10月刊の第3号に佐伯彰一・小松伸六の2人の筆名で「武田泰淳の方法」を寄せている。当時『赤門文学』同人会を、月1回小松の家で開いていたというから、佐伯もたびたび姿を見せていたに違いない。

昭和43年『國文學 解釈と教材の研究』9月号に、小松は「現代評論家の肖像 佐伯彰一」を寄せている(未見)。そして、昭和56年2月、はじめての著作『美を見し人はー自殺作家の系譜』(講談社)を書下ろしで刊行する。『文學界』六月号に佐伯彰一の書評「小松伸六『美を見し人は』」が載る。これも未見だが、長く交友があった佐伯の、優しい言葉があったに違いない。

なお小松の「佐伯さんのこと―わが芸道の師」には、佐伯がテレビの料理教室に出た話、物忘れの名人であったことなどの、様々なエピソードを書く。そして、「彼の住居は自由ケ丘、私は二つほど駅の離れた尾山台に住み。彼がいる等々力も近くで、今でも自由ケ丘の駅で偶然出会うことがある。そんなことで公私ともどもお世話になっている。」と語り、「彼が戦後まもなく匿名で書いた小説がある。紛失してしまったが、これさえあれば、彼をからかうことも出来るのだが、残念。セイキン(星菫)派ふうなものだったという記憶がある。」と、親しみを込めた言葉で終る。小松は、平成18年3月、91歳で死去。佐伯彰一は、10年後の平成28年1月、93歳で死去。ともに長い人生を送った文芸評論家であった。

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佐伯彰一編『自伝文学の世界』、佐伯彰一の論考が載った第四次『赤門文学』。

【訂正】写真は、小田切進と小松伸六。