小松伸六ノート⑰ 井上靖と小松伸六

井上靖と小松伸六

 

井上靖(1907-1991)は、北海道旭川市生れ、京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、昭和25年2月「闘牛」で芥川賞を受賞している。受賞直後、金沢の第四高等学校で教師をしていた小松伸六は、井上が勤めていた東京の毎日新聞社を訪ねている。

「私が井上さんにはじめて会ったのは、昭和は25年、氏が『闘牛』により芥川賞をもらって間もないころだった。私は金沢市から出ている地方紙に頼まれ、井上氏のインタヴュー記事を載せるため、氏を訪問したのである。井上氏が四高(旧制、現在の金沢大学)出身だったからである。氏は毎日新聞社のある一階の喫茶店で待っていた。」(『豪華版日本文学全集28 井上靖集』(昭和41年、河出書房新社)、「解説」)

その時井上は43歳、小松は35歳、金沢の北国新聞社が出していた『北国文化』編集者であった。金沢に縁のある井上への取材を、北国新聞社に頼まれたのであろう。

「紺のダブルを着た、小柄な、しかし筋肉のしまったきりっとした中年の紳士が足早にやってきなから、「お待たせしました……」とものやわらかく挨拶されたのが『闘牛』の作家であった。あさぐろい顔色のなかに、清純な眼だけが光っていた。」(同上)と、その第一印象を書き残している。小松は「そんな眼差しについて、私は当時こう書いた」と、その一文を再録もしている。「氏の一方の眼からは寛容、友情、愛がのぞき、他方の眼からは、それと反対の非情、傍観、孤独がのぞかれるのではないか。しかも二つの眼、矛盾した眼が、相殺されながら一つの眼差しになってあらわれる。それが井上氏の詩眼なのである。」このインタビユー記事は未見だが、昭和25年3月12日の『北国新聞』に、小松は「私の東京手帳」を寄せているから、そこに書いたのかもしれない。

2年後の昭和27年6月、井上靖文藝春秋社の講演会で金沢へやって来る。6月24日の『北国新聞』に「座談会 文壇人大いに語る」(未見)がある。出席者は深田久弥丹羽文雄、吉屋伸子、佐々木茂索、井上靖亀井勝一郎源氏鶏太である。この座談会に小松伸六も出席している。井上靖は、その時深田久弥と初対面であったと、当時のことをこう回想している。

深田久弥氏に初めてお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃、金沢に於いてであった。小松伸六氏がまだ金沢大学に居られ、筑摩書房の加藤勝代氏が北国新聞の記者をされていた頃である。(中略)とにかく金沢の料亭で、小松、加藤両氏らと一緒に深田さんにお目にかかったのである」(「深田久弥氏と私」、『きれい寂び―人・仕事・作品』所収、昭和55年)

小松は、その後井上靖文学を語り続けることとなる。小松は、昭和30年4月から、東京の立教大学の講師に就任し、自ら同人雑誌『赤門文学』を主宰していた。

昭和31年11月、『赤門文学』第6号に「作家以前の井上靖―「あすなろ物語について」」を筆名・内海伸平)で書いている。また小松伸六は、「作家の方法-「孤遠」の世界」を寄せているが、これは井上靖が『文藝春秋』31年10月号に発表した「孤遠」について論じたものである。この年、11月刊の和田芳恵が編集発行人の『下界』(東京)第6号には「井上靖の影の部分」を寄せる。そして、この年12月刊の井上靖『楼門』(角川文庫)に、小松は井上の文庫としてはじめて「解説」(未見)を書いている。さらに昭和32年4月には、『井上靖長篇小説選集 第1巻』(三笠書房)に「解説」を寄せ、収録された「あすなろ物語」「霧の道」について書いている。この年11月刊の『赤門文学』第9号に「歴史小説ノート―井上靖論断片」も寄せている。

このころの井上靖に、「作家ノート」(『新潮』昭和33年9月号から1年間連載)があるが、そこに小松伸六がたびたび登場する。昭和33年7月6日から井上靖は、瓜生卓造、福田宏年、三木淳らと穂高に登山旅行するが、そのメンバーに小松伸六がいる。翌7月7日には「蒲柳の質たることを自他共に許す小松氏は一人徳沢に泊まることになっていたが、ここに来て、引き返す」とある。そして10月9日には、「そこへ小松伸六氏が金沢の陶工、滝口加全さんと一緒にくる」とある。井上の「作家ノート」から、当時は作家と評論家との関係を越えた交友があったことがわかる。

そして昭和35年11月から『井上靖文庫』(新潮社)全26巻が刊行され、翌昭和36年1月刊『井上靖文庫』第18「海峡、緑の仲間」、翌昭和37年1月刊『井上靖文庫』第13「満ちて来る潮」、7月刊『井上靖文庫』第7「白い牙、春の嵐、霧の道」(新潮社)にそれぞれ「解説」を寄せている。その間。の昭和36年の『若い女性』8月号に「井上靖作〝河口〟から」。も寄せている

昭和37年7月刊、井上靖編『半島』(有紀書房)に小松は「花咲半島」を寄せているが、井上が書かせたのかも知れない。昭和39年の『国文学 解釈と鑑賞』10月号に「井上靖の魅力を探る」。昭和41年8月刊『豪華版日本文学全集28 井上靖集』(河出書房新社)に「解説」を寄せる。

昭和39年1月、井上靖が57歳の時最年少で日本芸術会員になり、そのお祝いの会に小松伸六が出席している。「たしか、井上靖さんが芸術院会員になったお祝いの会、といっても十五人ほどの親しい山の仲間だけの会だったのですが、そのとき源氏さんもとび入りされて、お酒がすすむと、みんなから歌をうたわされ、その上、かくし芸まで披露しろと強制されました。」(「源氏さんの印象とその文学」、昭和63年3月刊『とやま文学』第6号)とある。昭和43年夏には、小松は軽井沢の井上靖の別荘に対談の仕事で訪れる。源氏鶏太を語るなかで、小松伸六は当時をこう回想している。「今も軽井沢に源氏さんの山荘があるのではないかと思うのだが、その隣には井上靖さんの家があって、私は井上家に泊めてもらったことがある。かれこれ二十年前のある夏日のことである。宿がどこも満員で困り果てて井上家に泊めていただいたのである。」(「源氏さんの印象とその文学」、昭和63年3月刊『とやま文学』第6号)。この時の、井上靖との対談は、新潮社『波』昭和43年10月号に井上靖との対談「井上靖氏自作を語る」(未見)として載っている。井上靖源氏鶏太は軽井沢では隣同士、ゴルフ仲間でもあり、この2人と小松伸六をめぐるエピソードは限りない。

小松の、井上靖文学に関する仕事は続く。昭和48年3月刊『井上靖小説全集』(新潮社)第九巻に「書評・無償の情熱「射程」」を収録される。昭和50年3月刊の『國文學 解釈と教材の研究〈特集・井上靖〉』に「ロマンの世界・「氷壁」の場合」。昭和51年6月刊『井上靖小説全集 第30巻 夜の声,欅の木』(新潮社)の付録に「井上靖と老年様式」を寄せる。昭和57年5月に刊行された『井上靖の世界がわかる本』(辰巳出版)に、「井上靖の魅力/自伝・新編小説/清冽感の漂う源泉」として「あすなろ物語」「しろばんば」「わが母の記」「北の海」など9作品について、その魅力を語っている。

最後に、今もロングセラーとなっているものもある小松伸六が井上靖の文庫に「解説」を寄せた一覧を載せる。確認できたのは9冊である。

井上靖『楼門 他七篇』(昭和31/1956年、角川文庫)

井上靖『戦国無頼』(昭和33/1958年、角川文庫)

井上靖『真田軍記』(昭和33/1958年、角川文庫)

井上靖春の嵐・通夜の客』(昭和34/1959年、角川文庫)

井上靖しろばんば』(昭和44/1969年、旺文社文庫

井上靖『夏草冬濤』(昭和45/1970年、新潮文庫)/平成元年、二分冊として刊行

井上靖『その人の名は言えない』(昭和50/1975年、文春文庫)

井上靖『花壇』(昭和55/1980年、角川文庫)

井上靖『北の海』(昭和55/1980年 中公文庫)平成17年二分冊なり解説者が変わる

なお小松伸六は、北海道の釧路生れ。昭和38年6月15から21日のあいだ、井上靖佐藤春夫夫妻と北海道一周旅行に出かけ釧路地方も旅しているが、その時の感想を小松に語っている。小松の「根釧原野」(『北海道の大自然世界文化社、昭和56年)のなかに、「私は釧路生れ、中学四年までこの町でに育った。(中略)くらい風土と病気が、私を文学の迷路へと誘惑したのではないかと考える。「根釧原野を走っているとシベリアを走っているのと同じ、釧路で育ったなら文学でもやるより仕方ありませんね」と、井上靖さんが私に話されてから、十年以上にもなるだろうか、井上さんは旭川生れ。」とある。 

戦後の長きにわたって交友があった2人だが、平成3年1月に井上靖が83歳で死去、井上靖文学を語り続けた小松は、評論家としての仕事を絶っていた76歳の時であった。

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『豪華版日本文学全集28 井上靖集』、「解説」寄せた文庫、『井上靖文庫』、井上靖の論考を寄せた『赤門文学』、『井上靖の世界がわかる本』など