小松伸六ノート⑱ 東京新聞「大波小波」への寄稿

 

東京新聞「大波小波」の匿名子「兼愛」は小松伸六か!

 

東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」と言えば、前身の都新聞に端を発していて、80年以上も匿名批評として、時には様々な話題を文壇に投げかけ、いまも連載を続けている。小田切進編『大波小波・匿名批評に見る昭和文学史』(昭和54年、東京新聞出版局)全4巻があるが、その第4巻(1960-64年)を見ると、小松伸六がはじめて「大波小波」に寄せたと思われるコラムがある(なお、小田切進は立教大学で同僚であった)。

それは、昭和38年年4月29日の「忍月の金沢時代」で、最後にある匿名子は「兼愛」。近刊の海音寺潮五郎『武将列伝五』(文芸春秋新社)の「あとがき」に触れ、近頃の学生の卒業論文に触れ、「豊富なデータの上にたつ重厚な解釈こそ、歴史小説に必要という意味のことを書いている。」のあり、続けて、

「□……しかし近代文学研究の方では、同人雑誌のなかにも、新資料のすぐれた紹介がある。たとえば『北海道文学』(四号・札幌)では、鳥居省三が、啄木のつとめていた『釧路新聞』を中心に、明治・大正期の釧路文学運動史を徹底的にあらい、(中略)また三省堂の季刊『文学、語学』(二四号)では金沢大学助教授の福田福男が「石橋忍月の金沢時代」を紹介している。(以下略)」

とある。小松伸六は、北海道釧路生まれで、金沢大学での数年間の教員時代をおくった人であり、彼でなければ書くことができない一文と思われ、間違いなく匿名子「兼愛」は、小松と推測できる。その後、昭和38年、39年に「兼愛」の名で発表したものが、かなりある。38年7月11日の「主婦の感覚」では、「□……きのうの授賞式で第十一回の日本エッセイスト・クラブ賞をもらった新保千代子さんの『室生犀星―ききがき抄』(角川書店)」について書かれているが、『室生犀星―ききがき抄』は、小松伸六が主宰していた『赤門文学』に連載していたものである。同年9月21日の「日本文壇白書」では、「□……批評家というのは作家になりそこなった人間や、なりきれなかった人間から成り立っている。」と書き始めているが、小松は同様のことを、様々なところで語っている。同年12月13日の「最高シュクン選手」では、最後に近代文学館建設に触れ、「その縁の下の力もちとなったのが、立教大学の小田切助教授と学生たちである。この人たちことも忘れるわけにいかない。」とある。「その縁の下の力もち」とは、読んだ人にはその意味もわからなかったのではと思われる。これは、昭和36年立教大学田切進研究室が催した「大正昭和主要文芸雑誌展」のことで、小松は昭和40年9月15日の『立教大学新聞』の「書評・小田切進『昭和文学の成立』」に「げんざい日本近代文学館がつくられていることは、読者もご承知のことと思うが、その発祥地は、実は立教大学日本文学科小田切進教授研究室なのである。数年前、秋の大学祭のときに小田切さんは昭和期の有名な同人雑誌のほとんど全部かり集め、時計台の教室で展覧をやったのである」とあり、「最高シュクン選手」の一文と重なる。昭和39年4月2日の「『赤穂浪士』寸感」は、大佛次郎の「赤穂浪士」を語っているが、小松は昭和39年1月に新潮文庫大佛次郎赤穂浪士』(上下巻)の「解説」書いているから、宣伝も兼ねていたのかも知れない。昭和39年9月2日は、「太宰文学賞」について書いているが、かつて太宰にあったこともある小松は、「太宰賞も新鮮な才能を発掘してもらいたいが、太宰の亜流ほど困った存在もまたないのである」と厳しい匿名批評を寄せている。

田切進編「大波小波・匿名批評に見る昭和文学史」は、あくまでも文芸関係の「大波小波」を選んで収録。それも昭和39年で終っており、それ以後の多くを知ることができない。

そして、釧路市中央図書館に、昭和41年10月29日『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄稿した、小松伸六(匿名子不明)の「ものを書く女、昔と今」原稿が残されているという。

さらに、最近のインターネットのオークションに、昭和44年頃の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄せた小松伸六の原稿が2点出品されていた。「裸で抵抗」(天神派)、「退屈な大作家達」(転落者)。原稿には「小松伸六」の名前があり、最後の匿名子は、「天神派」「転落者」とあるが、このコラムの特徴は、執筆者が匿名子を様々に変えることで有名で、小松も色々な匿名子で書いていたと想像できる。また、古書店のHPに、ペン書四百字詰2枚揃「おんな大学」が出品されているが、これは間違いなくコラム「大波小波」に寄せたものであろう。

なお、釧路市中央図書館は、芥川賞受賞作清岡卓行アカシヤの大連」書評4枚のほか、「ヨーロッパのテレビ」「西ドイツの新聞」「日本人の遊び」「新聞小説作家評伝」の原稿を所蔵しているという。もし書評以外原稿が、原稿用紙2枚のものならば、『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に寄せたものと考えられる。

小松伸六は、昭和38年から昭和40年代の『東京新聞』夕刊のコラム「大波小波」に、匿名記事をかなり寄せたものと考えられる。小松の、隠れた仕事の一つと言える。

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田切進編「大波小波・匿名批評に見る昭和文学史」、小松「書評・小田切進『昭和文学の成立』」。写真・小田切進と小松伸六、「大波小波」の原稿。