小松伸六ノート⑲  石川啄木をめぐる2人の女性

「小奴」(近江じん)と「梅川操」(小山操)

 

小松伸六の生れた北海道釧路は、当時23歳の歌人石川啄木(1886~1912)が、明治41年1月21日からわずか76日間彷徨した街である。啄木がこの「最果ての街」で出会った、2人の女性がいる。1人は、歌集『一握の砂』、日記などに出てくる芸者「小奴」(あとの近江じん)、そしてもう1人は、小説「病院の窓」の「梅野」のモデルとされ、日記にも出てくる看護婦「梅川操」(あとの小山操)である。

小松は、この2人に幾度か会い、彼女らの晩年の心境を書き残している。そこからは、石川啄木という歌人に翻弄された、彼女らの苦悩が伝わって来る。なお、この2人の啄木と関係のあった女性について、多くの研究者らの論考があり、その経歴などは触れないが、ここでは小松との関係だけを追ってみたい。

文学少年であった小松伸六に、彼女らの話を最初に聞かせてくれたのは、父と母であった。「商人であった父は、芸者遊びをし、釧路の花柳界にもくわしく、小奴の生涯にもかなり通じていた。母が小山操を知っていたのは、昭和の初めに小山さんが美容院をやっており、そこに通ったことがあるからだという」(「釧路における啄木の恋」)とある。

小松が、はじめて「小奴」を訪ねたのは、釧路中学時代で「北の啄木と南の白秋(北原)に夢中になった中学生の私は、近江さんと啄木のロマンスを姉からきいて、ぶしつけに近江屋旅館に彼女を尋ねたのであつた」(「永遠の聖女と不滅の淫女」)という。昭和5年ごろのことであった。「私が近江じん(小奴)さんを知ったときは、釧路でいちばん大きな近江屋旅館を経営する女将となっていた。私は釧路中学(現湖陵高校)の生徒だったが、そのころ近江さんは、ひとり娘をなくしたことしか語らぬ、普通の母であった。戦時中、啄木は社会主義の危険人物とされ、賢明な彼女は啄木について一言も語らなかった。それはパトロンI氏への遠慮もあったかと思う」(「好かれた女嫌われた女」)とも書いている。

そして、もう1人の女性「梅川操」(あとの小山操)と会ったのは、昭和24年ごろという。「私が小山さんに会ったのは終戦後の昭和二十四年ころだったとおもう。わたしは夏休みで、たまたま釧路の両親の家へ来ていて、彼女が広島から、ふたたび釧路に引き上げてきていたのである。小山さんは夫にしなれてからは、美容師となり、娘のとつぎさきの広島で原爆をうけたが、身体のほうは無事であった。そのとき啄木日記がはじめて公開され、(中略)ひどい女として書かれていることを、はじめて知ったのである」(「好かれた女嫌われた女」)とある。

そして戦後、金沢の金沢大学の教師になっていた小松は、昭和28年夏の釧路に帰郷した時、再び近江じん(小奴)を再び訪ねる。「昨夏、釧路へ帰省したとき久し振りでお会いしたが元気だった。美しいが今は静かに世間のなかに老いている釧路では、有数の旅館角大近江やの楽隠居であった。もし啄木と出会しなければそして天才ではあったが多少気まぐれの蕩児啄木――これはもう一人の、啄木と交渉のあった老女にきいた呪いにみちた言葉だが――この蕩児啄木の歌にうたわれることがなければ誰も話題にしなかったであろう」(「啄木と藤村とそして生きている三人の女性」)と。

戦後石川啄木の日記が公開されると、啄木と関係があった「生きている愛人」として、多くの研究者や学者たちが、釧路に近江じん(小奴)を再び訪ねてくるようになっていた。また小松は、近江さんから聞いたという、こんな出来事を残している。

「それは戦後、啄木忌にあたる四月十三日、釧路の公民館で啄木を追悼する会がひらかれたとき、近江じんさんは招待され、その美しい思い出を語った。そのとき、小山さんは突然、壇上にかけ上がり、ウソつき啄木の裏面をしゃべりだそうとして、司会者はあわててこれをおしとどめたという」(「釧路における啄木の恋」)。これは、昭和28年4月13日、北海道新聞社と釧路啄木会が共催し釧路市公民館で開催された「第2回啄木祭」のことと思われる。小松は、「梅川操」(あとの小山操)の「話を聞いて、そのいちずな気持も私にはよくわかるのであった」(「永遠の聖女と不滅の淫女」という。

そして、小松が最後に近江じん(小奴)と会ったのは、父が亡くなって帰郷した昭和32年のことであった。「そのとき近江さんは、すでに旅館を廃業し、丘の上の小さな家に隠せいしていた。脳溢血でたおれたときいていたので、お見舞いかたがた上がったわけだか、七十すぎとはみえない若々しさと上品さをもっていた」という。そして、こう語ったという。

「石川さんと私の関係は、今の言葉で申しますとプラトニックラブ。握手するのにも身体がふるえるほどでございました、いしかわさんはとても行儀がよい方で、いつもハカマをつけておりましたわ。頭に小さなハゲがあって、私たちは豆ランプというニックネームをつけておりましたの…お互に若うござんした」(「釧路における啄木の恋」)と。

小松は、「啄木を語る近江さんの言葉は誰にも、そしていつも同じことのようであった。ちょうど暗誦している歌のようを歌いあげるように、そしてそのなかに自分の失われた青春の残煙を追うて生きているかのように美しく話されるのであった」(「永遠の聖女と不滅の淫女」)と「永遠の聖女」となって語る、近江じんの姿を見る。

小松伸六はこの時、再び「梅川操」(あとの小山操)にも会っている。「私は小山さんに昭和三十二年に釧路で会った。彼女は、知人の一室をかり、ただひとりの自炊生活で、経済状態も極度に苦しいらしく「冬、零下二十度になってもストーブをたきません」ときいたとき、私は唖然となり、返す言葉もなかった」(「釧路における啄木の恋」)と、当時の様子を記している。その時、小説「病院の窓」や日記について「梅川操」(あとの小山操)は、「――あのころのことを、そして私がそんなふしだらな女でも危険な女でもなかったことを書きとどめ、できれば発表する機会をえたいと思いますが、なにせ筆をとることも知らず、思いをどのように発表してよいかわかりませんの。でも日記を読むと、ほんとうに口悔しくなって……。それにしてもあのアンコ(小僧っ子)みたいな羽織ゴロが天才だとは……、そうとしったら、私のような女でも、もう少ししとやかにしていたかもしれませんね……」と、寂しく苦笑して、小松に語っていたという。小松は、「梅川操」(あとの小山操)について、当時、函館の女学校を出て看護婦として「働く婦人」を、啄木はなぜ「危険な女」と日記に書いたのかと疑問を呈し、語り続けたのである。

小松は、この2人の女性にの晩年についてこう記す。

「その近江さんも、いつしか釧路を離れ、四年前、東京の養老院で死んでいったことを、新聞を見て衝撃を受けた。啄木歌集の絶勝として、永遠の世界へ美しく引きいれられているからいいのだが、同じころ、釧路から汽車で一時間半ほどはなれて弟子屈温泉の養老院に収容されていた「不滅の悪女」小山操さんは、一体どうなるのか。啄木の筆の暴力ではないか。たとえ啄木日記の公開は、啄木があずかり知らぬとしてでもある。プライバシー(私的権利を守る権利)は、余程、慎重でであったほしい」(「釧路における啄木の恋」)と。

近江じん(小奴)は、昭和40年2月に東京の養老院で、76歳で亡くなる。「梅川操」(あとの小山操)は、昭和42年9月に弟子屈の養老院で死去、82歳であった。

ここに引用し、小松伸六が啄木と二人の女性について書いたものは次の通り。

・「最果ての啄木の愛人」(『北国文化』昭和26年3月号)*未見

・「啄木と藤村とそして生きている三人の女性」(『文庫』昭和29年3月号)

・「永遠の聖女と不滅の淫女」(『新潮』昭和32年8月号)

・「釧路における啄木の恋」(『旅』昭和44年9月号)

・「誰よりも偉大なゲイシャ」(『文芸広場』昭和44年11月号)*未見

・「好かれた女嫌われた女」(『太陽』昭和45年10月号「特集・石川啄木と北海道」)

参考文献として下記のものを使用した。

鳥居省三著・北畠立朴補注『増補・石川啄木』(平成23年釧路市教育委員会

北畠立朴『啄木に魅せられて』(平成5年、北龍出版)

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『新潮』昭和32年8月号、『太陽』昭和45年10月号「特集・石川啄木と北海道」、『旅』昭和44年9月号、『文庫』岩波文庫の會、昭和29年3月号。