小松伸六ノート㉒ 大衆文学作家と小松伸六 その2

大衆文学作家と小松伸六 その2 吉川英治川口松太郎

 

吉川英治(よしかわ えいじ 1892~1962

大衆文学に新境地を開くものとして圧倒的な読者を得、国民文学的な作家の一人とされた吉川英治。小松伸六は、昭和42年7月刊『吉川英治全集』(旧版、全56巻、講談社)第1巻の月報14に「『宮本武蔵』など」を書いている。

そこに、「吉川さんの上手な、というより聞く人の心を、すっかりとらえるようなテーブルスピーチを二度きいた」と書き出す。一度目は、和田芳恵さんが「一葉研究」で芸術院賞を受けたときというから、昭和31年3月のことである。二度目は、昭和35年1月に小松が司会を務めた、城山三郎『乗取り』の出版記念会の席で、「城山三郎氏をはげます会があったときに、吉川さんの話を一メートルもはなれないところで聞くことができた。たまたま、私が城山さんのパーティの司会をやっていたからだ」だと、書いている(平成4年9月、『吉川英治とわたし 復刻版吉川英治全集月報』(講談社)が刊行され、この一文が収録されている)。

昭和57年4月刊の『吉川英治全集13 新編忠臣蔵』(新版、全58巻、講談社)には、「解説・平衡感覚のみごとさ」を寄せる。吉川の「新編忠臣蔵」は昭和10年に雑誌連載されたものだが、多くの大衆作家たちの「忠臣蔵」を描いた作品と比較し、「赤穂事件は「侍の喧嘩」(小林秀雄の言葉)だが、庶民にもふれることで、いわゆる在来の「忠臣蔵」とは、一味ちがう深さをもっているように思われたし、今、読んでも少しも古くささを感じさせない点に感心した」と、「解説」を締めくくっている(平成2年刊『吉川英治時代小説文庫 補2 新編忠臣蔵(二)』(講談社)に再録された)。

翌昭和58年9月刊の『吉川英治全集9 燃える富士』(講談社)には、「解説・読者に夢を運ぶ」を寄せる。そこでは、吉川英治の作品に出会った中学時代を、「私事になるが、私の中学時代が大仏次郎の「てる日くもる日」「赤穂浪士」、吉川英治「剣難女難」「鳴門秘帖」の発表時とかさなり、小説って何と面白いものか、と徹夜で読んだ記憶がある。なつかしい」と書く。この全集に収められた「燃える富士」「修羅時鳥」などは、小松の中学時代の作品だが、当時これらの作品も読んでいたのだろう。大衆文学を語る、文芸評論家としての小松の一面が感じられる。

 

川口松太郎(かわぐち まつたろう、1899~1985

大衆文学の先駆者のひとりとして、すでに活躍していた川口松太郎が、昭和10年に第1回直木賞を受賞した。小松伸六は、昭和43年7月刊『川口松太郎全集』(全16巻、講談社)第12巻、昭和44年1月刊『川口松太郎全集』第1巻、2月刊『川口松太郎全集』第2巻に「解説」を書いている。未見だが、大衆作家川口松太郎の作品を、かなり読んでいたことがわかる。なお、昭和43年1月刊『川口松太郎全集』第10巻の月報2に、「人情を尽くす作家」を寄せ、「川口氏は、いろんな種類の小説を書く人だが、伝奇小説などでも「人情をつくす」ところに、私たちの心をとらえてはなさぬ、秘密があるのではないかと思う」と書いている。

小松は、昭和49年5月刊『昭和国民文学全集8 川口松太郎集』(筑摩書房)にも「解説」を寄せている。収録された作品は、第3回吉川英治文学賞を受賞した「しぐれ茶屋おりく」と、「古都憂愁」、代表作と言われる「鶴八鶴次郎」。小松は、その「解説」のなかで、川口の書く小説について「どの話も、自己の生命圏のなかで語っているので、真実のようにも思われる。心にくいほど、そのあたりを心得ているようだ。虚と実との鋭い平衡感覚をもつ人が川口松太郎である」と書いている。

川口松太郎の小説「新吾十番勝負」は、昭和32年から昭和34年にかけて朝日新聞に連載され、たびたび映画化・テレビドラマ化されている。その川口の代表作の一つと言われる『新吾十番勝負』が、昭和40年5月に新潮文庫として、上中下巻の全3冊として刊行された。この上巻に小松は「解説」を寄せている。

ここでは、「たしかに川口氏は天成のストーリーテラーであり、現代のたくみなる「語り部」だと思う。読みだしたら、やめられない面白さがある」と書き、最後に「ともあれ、この作品はエンターテインメントとしては文句なしの一級品である」と締めくくる。小松は、『川口松太郎全集』の3冊に「解説」を書き、それ以後も大衆作家川口松太郎の作品を、かなり読んでいた愛読者の一人であったことがわかる。

f:id:kozokotani:20210412160336j:plain