小松伸六ノート㉕ 女性作家と小松伸六 その2

幸田文(こうだあや 1904-1990

作家幸田文といえば、幸田露伴の次女として知られている。昭和22年の露伴の没後、父を追憶する文章を続けて発表、注目されるところとなり、昭和29年、『黒い裾』により読売文学賞を受賞する。昭和33年には、早くも『幸田文全集』全7巻が刊行された。

小松伸六は、昭和35年5月刊の『新選現代日本文学全集12 幸田文集』(筑摩書房)に「解説」を寄せている。この解説は未見だが、小松45歳の時の仕事で、文芸評論家として本格的に活動しはじめたころである。昭和37年6月刊の『サファイア版昭和文学全集15 円地文子幸田文』(角川書店)にも「解説」を寄せる。収録された作品は、伝記的な「おとうと」「流れる」の2作で、小松は、「日常生活のどんなささやかなことも、かりそめにしないで、小説の細部にたたきこんでいくすばらしさ。つまりこの作品をつらぬく幸田文の独自なエスティティクは、昭和文学の一つの地位を要求していることは、まちがいないようである」と書く。

昭和43年1月刊の『現代文学大系39 網野菊壷井栄幸田文集』(筑摩書房)には、「人と文学」を寄せる。収録された作品は「流れる」「勲章」「黒い裾」の3作品。「幸田式にいえば「背骨の押ったった」ような気象の高さが、幸田さんの文学をつらぬいているようだ。美論的にいえば、それは驕慢な美意識であり、立法的なエスティティク(美学)である」と、6ページにわたって幸田作品を論じている。

なお小松伸六は、昭和59年幸田文『闘』(新潮文庫)に解説を寄せている。この『闘』は、東京近郊の結核病棟が舞台で、結核という病のなかで生きる人たち描いた作品で、女流文学賞を受賞している。小松は、自らの結核での療養生活をこう記している。

「――ここで私事をはさむ。私も高校時代(旧制)、肺侵潤で二年間休学、静岡市の用宗海岸で療養生活をおくった。昭和十年前後である。さらに昭和十八年旧満州の遜呉に応召、結核再発。大連、奉天、広島の各陸軍病院を転々とした病歴がある。それだけにこの作品には身につつまされるところが多かったことを正直に告白しておきたい」と。

 

有吉佐和子(ありよしさわこ 1931-1984

昭和31年、「地唄」で芥川賞候補となり文壇に登場した有吉佐和子。代表作に、紀州を舞台にした年代記『紀ノ川』『有田川』『日高川』の三部作、『華岡青洲の妻』(女流文学賞)、老年問題の先鞭をつけた『恍惚の人』、公害問題を取り上げて世評を博した『複合汚染』など。理知的で多彩な小説世界を開花させた作家である。小松伸六は、早くから有吉の文学に注目した文芸評論家のひとりでもあり、昭和43年5月刊の『マイライフ』に「小説のなかのヒロイン~”紀ノ川”の女四代記」を寄せている(未見)。また有吉は、しばしば国内外へ取材旅行に出かけ、その後、アメリカの大学に9か月間留学、あとに、ハワイ大学で半年間講義し、作品の取材は、中国にも及ぶ。

小松が、有吉の文庫本に書いた「解説」は、昭和40年3月刊の『香華』(新潮文庫)1冊しか確認できないが、「エリオット風に「伝統を否定することにおいて伝統を継承する伝統主義に立つ」女流作家」と断定する。

昭和43年4月刊の『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に、有吉の「江口の里」「水と宝石」「三婆」3作品が収録され、 小松は「鑑賞」を寄せている(未見)。また、この年5月刊の『マイライフ』に「小説のなかのヒロイン~”紀ノ川”の女四代記」(未見)を寄せている。そして、昭和46年7月刊の『日本文学全集45 有吉佐和子瀬戸内晴美』(新潮社)に有吉の「華岡青洲の妻」など6作品が収録され、小松は6ページに及ぶ詳細な「解説」を寄せる。

そして小松は、昭和51年6月刊の『筑摩現代文学大系63 芝木好子・有吉佐和子集』(筑摩書房)月報27に「型の美しさー有吉文学の一面」を寄せる。日本伝統の歌舞伎、生け花などの「型」に触れ、「小説にも「型」を持たしてもいいのではないか。過去を結晶せしめているのが「型」なのだ。その型を継承している物語作家にも有吉佐和子がいる」と書く。有吉文学を語り続ける小松は、昭和57年7月30日から5回に渡って『東京新聞』の「現代作家の世界」のなかで有吉文学について書き、最後の8月27日の「現代作家の世界41の有吉佐和子⑤」のなかで、「日本の作家たちが国外に亡命しなければならならぬ事態がおきても、有吉女史は亡命生活に耐えられる唯一の女流作家ではないのか。古風なようで国際性を持つ、つよい演劇文化人が有吉さんだと、私は思う」と書いている。

しかし、昭和59年8月、有吉は東京都杉並区内の自宅で、53歳の若さで死去した。小松にとって、もっと長く活躍してほしかった作家のひとりでもあったろう。

 

壷井栄(つぼいさかえ 1899~1967

作家壷井栄といえば、戦後反戦文学の名作として、後に幾度も映画化された「二十四の瞳」が思い浮かぶ。小松伸六は、壷井の作品の出会ったのは、戦前のことである。

「壷井さんが「大根の葉」を発表したのは、昭和十三年九月号の「文芸」誌上で、渋川驍、和田伝鶴田知也など三人の作品とともにのっている。私は「大根の葉」に感心し、その号はとってあるのだ。それ以後壷井ファンになって、今日にいたっているが、こうした読者はほかにもいるのではないかとおもう。私はそのころ、本郷の学生で、美学美術史科に席をおいていた。学校へはほとんど出ることもなく、むずかしい文学書を乱読していた」(「「えくぼのある文学」のきびしさ」)

小松が最初に壷井栄の文学を論じたのは、昭和37年の『国文学 解釈と鑑賞』9月号に寄せた「壷井栄」と思われる。「私は、そうした壷井文学を「室内の文学」と書いたり、「母たちの国の文学(ゲーテの「ファウスト」のなかにある言葉)と書いた覚えがある」と「「えくぼのある文学」のきびしさ」に書いているが、」この時のことと思われる。

壷井栄は、昭和42年6月に67歳で亡くなっているが、小松は、翌年の昭和43年1月刊の『現代文学大系39 網野菊壷井栄幸田文集』(筑摩書房)に「人と文学」を寄せ、「なくなられた現在、ここでは私なりの壷井さんへの鎮魂歌を書いてみたいと思う」と、「壷井さんの文学には、解説も批評もいらない。子供から大人まで、男も女も、働く人もインテリも、さらに一般の読者も精読者(たとえば批評家)も、誰でも、手ぶらで、すーと入ってゆける世界が、壷井さんの文学なのである」と書いている。そして、同じ年の昭和43年12月刊の『壺井榮全集』(筑摩書房)第8巻の月報に、「「えくぼのある文学」のきびしさ」を寄せたのである。そして、昭和48年5月刊の『現代日本文学大系59 前田河廣一郎・徳永直・伊藤永之介・壷井榮集』(筑摩書房)に「壷井栄の文学」を寄せる。ただこの論考の最後に「昭和三十七年九月」とあり、昭和37年9月の『国文学 解釈と鑑賞』に寄せた「壷井栄」であろう。

小松伸六が、壷井栄の文庫に解説を書いたのは新潮文庫版『二十四の瞳』である。そこに「壺井栄 人と作品」、「『二十四の瞳』について」を寄せている。手許のある新潮文庫は、平成19年6月刊91刷である。ただ、新潮文庫の初版は、昭和32年9月刊だか、その時の解説は「窪川鶴次郎」である。昭和40年9月には、22刷改版が出ているが、小松が「解説」を寄せたか、確認できていない。

ただ、新潮文庫の小松の解説「壺井栄 人と作品」が書かれたのは、壷井栄の死に触れているから、内容からして昭和42年以降と思われる。昭和54年9月刊の48刷には、「壺井栄 人と作品」「『二十四の瞳』について」の末尾は(昭和四十八年九月)とあるが、いつから新潮文庫に小松の解説が入ったのか、はっきりしない。『二十四の瞳』は映画化やテレビドラマ化されるたびに版を重ね、ロングセラーになっているから、これからも小松の解説とともに読み続けられていくに違いない。

f:id:kozokotani:20210517102148j:plain