小松伸六ノート㉖  山本有三と小松伸六

 

山本有三(やまもとゆうぞう 1887~1974)

山本有三といえば、幾度も映画化された『路傍の石』が思いだされる。

山本は、今の栃木県栃木市生れ。東京帝大独文科再学中に、豊島与志雄菊池寛芥川龍之介久米正雄らと第三次「新思潮」で戯曲家としてデビュー、大正末期から小説にも手を染め、女医を描いた『女の一生』、勤め人一家を描いた『真実一路』、逆境を生きる少年を書いた名作『路傍の石』などで国民的作家となった。昭和40年には、文化勲章受章を受賞している。

小松伸六が、作家山本有三について本格的に論じたのは、筑摩書房が出していた『現代文学大系』に「山本有三集」が編まれた時である。その仕事のいきさつについて、「山本さんに始めてお会いしたのは昭和三十八年の初夏のことであった。ある現代文学大系の山本有三集の解説を私が書くときになったときだ。山本さんが私に会ってみたいという希望で、私は編集者のK氏とともに湯河原の山本家を訪問した。私はいろんな作家の解説を書いてきたが、解説者に会いたいという作家の申出を受けたのは初めての経験であった」(「向日性の作家、山本有三」と書いている。続けて小松は、「私が山本さんと同じように東大ドイツ文学科出身なので、同じ学科の後輩に目をかけて下さるという気持ちがあったかも知れない」と言っている。山本有三は、大正4年東京帝国大学の独文科を卒業しているから、大先輩であり、山本は後輩の若い文芸評論家に直接会ってみたいと思ったのかもしれない。その時山本76歳、小松49歳の時である。

そして、翌年の昭和39年1月に『現代文学大系26 山本有三集』(筑摩書房)が刊行され、小松は「人と文学」として、23ページにわたる解説を寄せている。冒頭から「路傍の石」に触れ「この作品は山本氏の少年時代の生活体験の直述でもなければ、諸事実の記録でもない。その意味では、むしろ一個の独立したロマンとして読む方がいい」と言う。こんなエピソードも記している。

「私事にわたるが、私の家には仕事がら、さまざまな日本文学全集があるのだが、そのなかで、もっともよごれのはげしいのがきまって山本有三集なのである。私の娘たちがよみ、甥たちがよみ、学生たちも借りてゆくのである。」

そして、代表作「路傍の石」から、随筆、戯曲までの作品を論じ、「山本氏の文学は、読者の健康で素朴な要求である「文学によってなぐさめられ、生きる力」をあたえてくれる「感動の文学」である点で、百万人の読者を持つ、国民文学と言えるからだ」と断言する。

昭和47年10月刊の『日本文学全集27 山本有三集』(集英社)月報24に、「山本有三文学のたのしさ」を寄せる。小松は、「私は文学部に入ってきたのだから、小説ぐらい読みなさい、日本の現代小説にもおもしろいものが沢山あるのだからとすすめる。私はドイツ語教師だが、山本有三文学をすすめる」と書いている。

昭和49年1月、山本有三は87歳の生涯を終えた。没後、『山本有三全集』(新潮社)が編まれ、小松伸六は、昭和51年8月刊の『山本有三全集』(新潮社)第7巻の付録に、最初に山本有三を湯河原の家を訪ねたこと引用した、「向日性の作家 山本有三」を寄せるのである。初対面のあとのことだが、「その後、山本さんから帝国ホテルに福田清人さん荒正人さんと一緒に招待され御馳走になったこともある」「菊池寛賞の受賞式でも、選考委員だった山本さんが、身じろぎもせず、端然と座っていた姿をおもい出す。パーティになり、私が挨拶にゆくと、度の強いメガネごしに、気軽に話しかけて下さる」などと、山本有三を回顧するエピソードを綴っている。

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