『釧路春秋』2050年5月・春季号に「鳥居省三と浅利豊次郎」を寄稿しました。

そこから、波乱の生涯を送った、浅利豊次郎の年譜を紹介します。
浅利豊次郎(菩是子、菩提子、並木凡平)年譜
1889(明治二十)年 (満年齢で表記)
五月、秋田県山本郡藤里町(旧藤琴村)で生れる。
1902(明治三十五)年 十五歳
三月、地元の高等小学校卒業、教員養成所に入る。その後、母校の小学校代用教員として勤める。
1904(明治三十七)年 十七歳
この頃から正岡子規の新俳句の影響を受け、句作を始める。
1906(明治三十九)年 十九歳
九月、北海道の札幌に渡り、村岡治右衛門(秋田生れ、札幌共同運送社長。森田たまの父)の家に下宿、石狩郡篠津屯田兵村の代用教員を務める。
1908(明治四十一)年 二十一歳
三月、代用教員を辞し、五月二十五日、村岡治右衛門の紹介状を持って来釧、釧路運輸事務所に勤める。同宿舎の文学青年渡部泰哉(俳号・柳村、歌号・宵南、金沢生れ)と出会う。六月、北東新聞社に幣舞会の三好鉄嶺(陣太郎、松山出身)を訪ねる。十一月二十一日、幣舞会に出席、吟友会の高嶺(大沢久吉、後の米山穣)、無果花(菊地三之助、後の釧路市長)に会う。二十五日、同僚の中島扶揺と幣舞会に出席。この頃、号・菩是子として俳句を詠み、『日本及日本人』などに投稿。
1909(明治四十二)年 二十二歳
九月八日、野中賢三と出会う。九月十九日、正岡子規七回目の命日に野中賢三宅で行われた「子規忌晩餐会」に出席。十一月十九日、三年ぶりにザクロ会が復活し、第十二回研究会が野中賢三宅にて開催され出席、十二月二十一日の『釧路新聞』の〝阿寒太会句稿〟に、号・菩是子の「神威酒に撫髯の礼や熊送り」が載る。
1910(明治四十三)年 二十三歳
一月刊『文章世界』(第五巻第一号)の俳人高田蝶衣「諸家俳句」の中に、号・菩是子の「商閑を霜晴に得つ冬かまえ」が載る(『毎日新聞』の与謝野晶子選で載った投稿作品か)。四月二十三日、野中賢三から上京のための蔵書競売を依頼され、翌二十四日にその蔵書目録を作る。
1911(明治四十四)年 二十四歳
三月頃から、ペンネーム「並木凡平」を使いだす。三月刊、『ホトトギス』『明星』などに載った秀句を集めた伊達秋航編『最新明治句集 春』(明治四十四年、四三堂書房)に菩是子の俳句が載る。三月一~七日まで『釧路新聞』に「不満の歌」、二十五日に「周囲を気にする男の歌」、三十日に「男馬鹿女亦馬鹿」として短歌を寄せる。九月、「ザクロ会短歌研究会」を発足。
1912(明治四十五、大正元)年 二十五歳
四月七日、『釧路新聞』に短歌「下駄取替へられたる男の歌 笠井病院より帰りに歌へる」、六月二十日に随筆「五々の春」、八月二十五日に短歌「疲れたる心の影」を寄せる。十一月六日から「古い日記抄」を連載、十二月一日に詩「平眼記」を寄せる。
1913(大正二)年 二十六歳
このころ北海道鉄道管理局の書記を務める。二月、ザクロ会の仲間、東京の野中賢三と釧路で最初の同人誌『凍野(ツンドラ)』を刊行。「発刊の辞」を書き、小説「合鍵」を連載。十一月刊第十号(終刊号)に、旧知の村岡たま(森田たま)の書簡「東京より」を載せる。
1914(大正三年) 二十七歳
五月、東京鉄道管理局に転勤になり五月十二日上京。東京市神田区西小川町二丁目九番地の二階八畳、下七畳三畳の新築の家に母と住み、一ツ橋の和田倉橋にあった東京鉄道管理局の役所に通う。
1915(大正四)年 二十八歳
四月十一日、東京浅草で行われた石川啄木三年忌追想会の集りに金田一京助、与謝野晶子、『凍野』に表紙画を寄せた清水七太郎らと共に出席(土岐善麿「石川啄木三年忌追想會」より。(『啄木追懐』昭和七年、改造社)丈作、及び『土岐善麿歌論歌話 上巻』(昭和五十年、木耳社)に収録)四月二十八日、『釧路新聞』に「「思索の道」より」、五月二十五日に、「上京一周年記念日に於て」を寄せる。十月刊、伊達秋航編『俳諧新五万句』(如山堂書店)に俳句「よべの狐尾摺り行きけん草萌る」が載る。
1916(大正五)年 二十九歳
病のために釧路に帰郷していた野中賢三が、四月十八日二十七歳で死去、葬儀の友人代表を務める。野中の没後に、遺稿集を計画したが未完に終る。
1919(大正八)年 三十一歳
五月、名古屋の鉄道管理局に転出。
1920(大正九)年 三十二歳
五月に鉄道省が設置、八月に鉄道大臣官房勤務となり、東京に戻り現業調査課に勤める。この頃、鉄道管理局の「新橋俳句会」に所属する。
1924(大正十三年)年 三十六歳
この頃、鉄道従業員組合書記長を務める。浅利豊次郎著『国有鉄道現業委員会』を刊行。
1926(大正十五年・昭和元)年 三十八歳
三月、鉄道省を辞し、鉄道生活社を創立。三月十二日から、鉄道従業員の夜間講習会で「現業委員会」制度の講師を務める。鉄道生活社として、鉄道関係の雑誌『鉄道生活』(八月創刊)、『鉄道生活社特輯パンフレット』の出版を始める。四月、浅利豊次郎著『国際労働会議と鉄道従業員』(鉄道生活社)を刊行。この年、発行兼編集人として東京都下豊多摩郡淀橋町柏木一〇〇四の鉄道生活社から、松延繁次『英国鉄道労働運動』、横川四郎『英国総同盟罷業の原因と経過』、平山孝『鉄道財政の話』などを出版。
1927(昭和二)年 三十九歳
この年、岩崎磯五郎『通俗科学鉄道物語』、元吉理『国有鉄道の台所』などを出版。
1928(昭和三)年 四十歳
この年、石川順『支那の鉄道』、秋田生れのプロレタリア作家今野賢三の短編小説集『汽笛』などを出版するが、鉄道生活社を廃業。三月十一、十二日に官業労働総同盟第十回大会が東京市芝協調会館で開催され、全日本鉄道従業員組合の代表として祝辞を述べる。その後、鉄道従業員組合書記長を辞任。この年六月刊の『鉄道労働』第二十六号から、編集嘱託となる。この頃、中野区中野町打越二の十五に移転。
1934(昭和九)年 四十六歳
この年、渋沢栄一のよって設立された国際聯盟協会の会員になる。元内閣総理代臣犬養毅を顕彰する『木堂雑誌』(木堂雑誌発行所)の「誌上名刺交換会」に名前が載る。住所は杉並区清水町二一四。
1941(昭和十六)年 五十三歳
十余年を過ごした雑誌『鉄道生活』の編集嘱託を辞し、八月に出版会社冨山房に入社、その後満州国に渡り新京の満州冨山房支店長となる。この頃、中国新京の俳句結社「柳絮(りゅうじょ)会」に所属し、俳句の号を菩是子から菩提子と改める。
1943(昭和十八)年 五十五歳
七月、満州冨山房支店長として紀平正美著『建國の哲學』(建國大學研究院現代學教本)、八月、富永理著『滿洲國の民族問題』、十一月、満洲藝文年鑑編纂委員會編『満洲藝文年鑑』(康徳九年度版)などを刊行、
1944(昭和十九)年 五十六歳
四月、作田荘一著『滿洲建國の原理及び本義』(建國大學研究院現代學教本)、十二月、北村謙次郎等の文、赤羽末吉等の絵がある『五彩満洲』などを刊行。
1945(昭和二十)年 五十七歳
三月、中山久四郎著『満洲大豆考』を刊行。八月、満州で終戦を迎える。
1947(昭和二十二)年 五十九歳
二月、無一文で満州から帰国。七月、かつて満州国新京にあった東京の大学書房に勤める。この頃、「城北ホトトギス会」に所属、その後、句集『鉄線花』の社友、岡山の句集『旭川』の同人となる。
1954(昭和二九)年 六十六歳
この年、大学書房を退職。財団法人京野育英団に入り、同団経営の農大千歳寮々監を勤める。その後、移転した東北学生寮の寮監となる。
1963(昭和三十八)年 七十五歳
病のため、九年間務めた京野育英団の寮監を辞す。
1964(昭和三十九)年 七十六歳
この頃神奈川県川崎に住む。十一月、胸部疾患のため東京女子医大病院に入院。
1965(昭和四十)年 七十七歳
九月刊行の『北海文学』第四十二号に、「ザクロ会時代ー野中賢三の追憶」を寄せる。十月刊『航海』第一号に、並木凡平筆として書簡「わが回想」が載る。
*この年、野中賢三から浅利豊次郎宛ての書簡(明治四十二年から大正三年五月まで)八十数通と『凍原』が賢三の弟三二に送られ、その後鳥居省三の手に渡る。
1968(昭和四十三)年 八十歳
五月、句集「鉄線花」にホトトギス同人として寄せた随筆や年譜等を収録した、浅利菩提子句集『寮守九年』(秋田湯沢市、京野育英団刊)を刊行。
1975(昭和五十)年 八十七歳・没年
この年死去(詳細不明)。
*【注】この年譜は、浅利菩提子句集『寮守九年』にある随筆四篇と「あと書き」「著者略歴」、鳥居省三、勝又光男の記述、国立国会図書館の資料(国立国会図書館デジタルコレクション)をもとに作成した。