小松伸六ノート⑧  太宰治と小松伸六

 太宰治と小松伸六

今も多くの人たちに読み続けられている太宰治(だざい・おさむ、1909~1948)は、40歳で心中自殺するなど波乱の人生を送った作家だが、小松伸六は昭和15年秋に、そんな太宰治三鷹の家を太宰の中学時代からの友人阿部合成(1910~1972 画家)と訪ねている。太宰治は、昭和14年9月、東京府北多摩郡三鷹下連雀に転居。精神的にも安定し、昭和14年7月に「女生徒」、15年5月に「走れメロス」などの優れた短編を発表していた新進作家時期にあたる。

 

「私は戦前一度だけ太宰の家を訪問したことがある。昭和十五年の秋、太宰と同郷の青森中学時代の友人で画家の阿部合成(故人)にさそわれ、三鷹下連雀の家をたずねた(中略)太宰の家は三鷹の駅から徒歩で十五分ぐらい、(中略)今日からは想像できないほど寂しいところにあった。畠をつぶした新開地の借家。六、四半、三畳の三部屋で、津軽の実家は御殿のような大きな家だときいていただけに私はびっくりした。太宰はすでに新進流行作家、十三坪という小さな家は私には思いがけないことだった。」(「太宰治」、『美を見し人は』収録)

 

そのとき太宰は。「天気もいいから深大寺へ散歩しながらしゃべろうと阿部に話しかけ」たといい、3人で深大寺を散歩したという。その時小松は大学院に席を置き、東大図書館で写学生を務めていた25歳の時で、太宰は32歳であった。

小松と画家阿部合成(1901~1972)が、どんな関係にあったのかを調べてみると、「内海伸平」の筆名で書いた「浅草感傷記(私の東京地図1)」(『北国文化』№78、昭和27年9・10月号)があるが、それは、昭和27年夏に上京した小松が、東京での街を歩きながら青春時代の当時を回顧した一文である。そこに東京帝国大学4年のころ、結婚まで考えて付き合っていた女性に失恋したことを書いている。「太宰の友人の画家Aのめいであった。秋子はそのころ新宿の紀伊国屋書房に勤めていた。青森の実家を家出してきた十八歳の少女だった。紀伊国屋には、私の従妹で、やはりこれも尾道から家出してきたK子が勤めていたので、私たちは親しくなった」とある。「画家A」とは、阿部合成のことであろう。阿部と知り合ったのは、阿部の姪が関係していたかも知れない。

そして昭和17年、小松は『赤門文学』八・九月合併号に筆名・内海伸平で「太宰治論」書いている。「太宰をどんなふうに論じてゆかうと困り果てた所で、近作「正義と微笑」を読む。大變楽しく讀んだ」と、はじまる11ページに及ぶ論考である。ちなみに、この『赤門文学』の表紙画、カットは阿部合成が描き、太宰と親しかった山岸外史の「ロダン論1」も載っているが、小松と阿部合成は、この『赤門文学』を通して面識があった可能性もある。

追記(平成3年2月3日)/『評伝・山岸外史』(万有企画)の著者池内則行氏からのご教示で、小松伸六から池内氏への書簡に、次のように書かれていたという。

「山岸さんには戦前一度、冬の夜、団子坂あたりを散歩につれだされ、寒かったことをおぼえています。戦後、阿部合成さんの会で、遠くから見ておりました。山岸さんには戦前一度、冬の夜、団子坂あたりを散歩につれだされ、寒かったことをおぼえています。戦後、阿部合成さんの会で、遠くから見ておりました。」

小松伸六は、戦後の金沢の第四高等学校(のち金沢大学)のドイツ語講師として赴任、地元の北國新聞社が出していた『文華』に寄稿するようになる。

昭和23年『文華』7月号の「小説の面白さについて(作家深田久弥を囲む座談会)」があり、出席した小松、深田久弥、沢木欣一、西義之、加藤勝代が、「太宰と〝斜陽〟」について語っている。太宰治の『斜陽』は、昭和22年12月に新潮社から出版されている。小松は「非常に甘つたれ文章だと思うんです」などと、厳しく語っている。そして、翌昭和23年6月、その太宰治は玉川用水で心中自殺を図る。太宰治、40歳の死であった。

小松は、その年『文華』11月号に「ある情死行―太宰論序説」を書く。ドイツの劇作家クライストハインリヒ・フォン・クライストの心中と太宰の心中事件を重ね合て書き進めている。そして最後に、「戦時中、自らすすんで進軍ラッパとなって南方に出かせぎ中、途方もない暑さのために、自分の影法師を、とかしてしまった戦犯作家や、モスクワにあこがれて、途方もない寒さのために、影を地面に凍りつかして、それをはがせずに帰つてきた政治詩人の「人間失格」よりは、どれだけ太宰の方が人間的だかわかりはしない。合掌。」と書く。12月号には、「近代作家の美と死について―太宰治論その二」を寄せたというが、この一文は未見である。

そして、この頃太宰の自殺について論争があったらしい。『北國文華』にある「小松伸六追悼号」の「小松伸六の金沢」のなかに次のような記述がる。

 

「昭和二十三年六月に太宰治が愛人と入水自殺すると、その評価をめぐり北國新聞紙上で論争が起こった。「二十世紀の旗手倒る」と題し、小松が愛憎の念を示したのに対し、西敏明が「軽業師」が綱から転落しただけだと断じたのである。論争は「文華」に持ち込まれて続いたが、その「文華」最終号で、小松氏は西氏とけんかした忘れられない人物として紹介している。」

 

小松が北國新聞に寄せた「二十世紀の旗手倒る」や、反論した西敏明の一文は未見であり、その後の『文華』での経緯も知ることが出来ない。(2月13日追記・小松は『北國新聞』6月18日に「廿世紀の旗手倒るー太宰治の死」、22日に西敏明は「綱から落ちた軽業師ー太宰の死について小松氏へ」、23日に小松は「文学は米にあらず―西氏に答へて」を寄せている。)

小松伸六は、昭和40年1月刊の『現代文学大系54 太宰治集』(筑摩書房)の月報20に「太宰巡礼者」を寄せている。そこでは、「太宰治は、依然として、若い人たちの間を歩きまわっている」と、金沢の旧制四高の教師時代に、小松の家に下宿していた学生が自殺したことに触れ、彼は太宰の自殺の影響を受けていたのではないかと推測する。

昭和47年、小松伸六は親交のあった評伝文学作家杉森久英(1912~1997)の『苦悩の旗手 太宰治』(角川文庫)の「解説」を書いている。そこでも、「私事にわたるが」と、太宰の家を訪ねたことを書いているが、その時の散歩の様子を「その頃は、あのあたりには家が全然なく、野原を歩くのは、私にとってつらいことであった。敏感な太宰は、私の方をみながら、「お若いの、こわいか……」と言って笑わせ、休んだ。「こわい」というのは、私の出身地北海道では、「疲れた」ことを意味する言葉である。」というエピソードを残している。なお、角川文庫『苦悩の旗手 太宰治』の解説は、昭和58年に出た河出文庫『苦悩の旗手 太宰治』も収録されたが、その解説に「追記」を書き、そのなかで3年前に出した『美を見し人は』(講談社)に触れ、書くにあたって「各作家の主なる作品は全部読んだ。そのなかで小説として一番面白かったのは芥川作品と太宰作品であった。」と書いている。「美を見し人」を追い続けた小松伸六にとって、太宰治は生涯忘れることの出来ない作家のひとりであったに違いない

なお平成4年、『太宰治論集 同時代篇 第3巻』(ゆまに書房)に、太宰治に触れた、昭和23年7月刊『文華』の対談「小説の面白さについてー作家深田久弥を囲む座談会」(抄)が再録され、平成6年2月刊『太宰治論集 同時代篇 第8巻』(ゆまに書房)には、『文華』に寄せた「ある情死行」が再録。さらに、平成6年7月刊『太宰治論集 作家論篇 第8巻』(ゆまに書房)に『美を見し人はー自殺作家の系譜』に書いた「太宰治」が収録さた。そして平成10年9月刊『太宰治全集』(筑摩書房)第6巻が刊行され、内海伸平の筆名で発表した「太宰治論」(初出・『赤門文学』昭和⑰年8、9月合併号)が、同時代評として収録され、いずれも容易に読むことが出来る。

また、古書店に小松伸六匿名「太宰治、他殺説」原稿用紙2枚の草稿が出たことがあるが、『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」に発表したものかも知れない。 

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「パルコ文化を創った八人の装丁本展」

えっ!古本屋で展示会?/第四弾

「パルコ文化を創った八人の装丁展」

京都・10月16日(金)~18日(日)左京区Books Herrinng

東京・11月8日(日)~23日(月)西荻窪 モンガ堂

 

 『北方人』に書誌を連載するかわじ・もとたか氏が「えっ!古本屋で展示会?」の企画展第四弾として「パルコ文化を創った八人の装丁展」を開催しました。あの渋谷パルコを舞台に活躍したアーチスト、山口はるみ湯村輝彦・会田佐知子・吉田カツ・河村要助・ペーター佐藤の八人が関わったブックデザイン(装丁)を集めたものです。今回は、京都のBooks Herrinng(左京区岡崎南御所町40ー9、ilyailya@yahoo.co.jp)、東京の西荻窪モンガ堂(杉並区桃井4ー5ー3)の二ヵ所で開催されました。もう展示会は終ったのですが、その様子が「アクロス」2021年1月13日号で紹介されました。

「パルコ文化を創った八人の装丁本展」とパルコ文化 ACROSS(アクロス) (web-across.com)

小松伸六ノート   ちょっと寄り道④

小松伸六が使ったペンネーム「小森六郎」「小森美千代」のこと

 

小松伸六が『赤門文学』『北国文化』でペンネーム内海伸平を数多く使っていたこは、文学事典等で知られるところである。そこには、小森六郎の名でいくつかの作品を書いているが、その内容からもう一つのペンネームではないかと考えていた。特に、昭和31年11月『赤門文学』第6号にある、小森六郎筆による「同人紹介」は、小松伸六でなければ知り得ない多くのことが書かれている。ご遺族のもとを訪ねた時、「小森六郎」を使ってたことを確認したところ、間違いなくもう一つのペンネームである確証を得た。

 

そして、驚いたことに小松伸六が1冊の本にしたという『宮廷秘歌』という本を拝見させていただいた。『宮廷秘歌―ある女官の記』は、筆者は小森美千代。昭和25年3月20日発行。出版社は東京千代田区の有恒社。ご遺族によれば、小松が皇居に勤めた親類である人からの聞き書きでであり、それをまとめて出版したもので、家にはこの本がたくさんあったと言われた。帯文によれば「この書の一部はすでに「女性改造」「新女苑」などに連載。ついには 海彼方にまで転載されて異常な反響をよんだ!」とある。小松伸六は、女性のペンネーム小森美千代を使い発表、それを出版したということになる。なお、帯文に「なかのしげはる」(中野重治だろう)と、金沢で親交があった「深田久彌」の一文がある。刊行当時、小松伸六は金沢大学のドイツ語教師で、『北国文化』の編集をやっていた時代、同誌に小松伸六の名、そしてペンネーム内海伸平、小森六郎の名でいくつかの作品を書いていたが、小森美千代を使っていたことは驚きでもあった。

(2月13日追記・『北国文化』昭和24年4月号から、小森美千代「大宮御所の内幕・灰色の女たち」がはじまり、5月号に「大宮御所の内幕2・おせなかあらい」、6月号「大宮御所の内幕(完)・灰色の女たち」、8月号には小森美千代「女官と天皇」がある。)

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小松伸六ノート⑦ 大佛次郎と小松伸六

大佛次郎と小松伸六 

大佛次郎(おさらぎ・じろう 1897~1973)は、『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、童話などまでを幅広く手がけた作家で、昭和39年には文化勲章を受けている。小松伸六が大佛の小説とで出合った中学時代を、「私を再発見させてくれた本」(『帰郷』旺文社文庫、昭和41年)に書き残している。

 

「私は北海道も北の果て、釧路にうまれ、中学時代までここでおくったのだが、中学生のときに兄の買ってきた「ごろつき船」(昭和四年)を徹夜して読んだのが大仏さんとの出合いである。それがおもしろく、「照る日曇る日」(大正十五年)「赤穂浪士」(昭和二年)などを、町中の本屋をさがして買い求め、読みふけってことを思いだす」

 

大佛次郎の作品を読み続けていた小松は、昭和28年7月、『昭和文學全集17 大佛次郎集』(角川書店)に、「大佛次郎は現代の日本文學の一つの良心だといつても決して云ひすぎにはならないと思ふ」と書き出された「解説」を寄せる。小松にとって「文学全集」に「解説」を書く初めての仕事であった。その年、北陸の金沢大学を辞め4月から高崎市経済大学に勤めていた38歳の時であった。それ以後、大佛次郎の人と文学について語り続ける。

東京の立教大学に移っていた昭和35年7月には、岩波書店から出ていた雑誌『文学』に「大仏次郎論ー鞍馬天狗を中心にー」と題した、優れた論考を寄せている。これによって、戦後に大佛次郎の文学を語る第一人者として認められたようである。昭和39年1月には、大佛次郎赤穂浪士』(下巻、新潮文庫)の解説を書く。そして、この年10月には『少年少女現代日本文学全集33 大仏次郎名作集』(偕成社)を編み、「この本には、大佛次郎の作品から若い人たちに向いたもの、いろいろな面からえらんで収めました」(「はじめに」)と、少年少女にために、大衆小説、現代小説、童話、随筆を選び、「大佛次郎の人と文学(解説)」も書いている。

昭和40年4月には、『現代の文学5 大佛次郎集』(河出書房新社)の月報に「大佛次郎の文学」寄せ、この年12月刊の『ジュニア版日本文学名作選』(偕成社)第27巻大佛次郎「ゆうれい船(上)」、第28巻「ゆうれい船(下)」に、それぞれ「この本について」「作者と作品について」を書いている。

昭和43年4月刊の『日本文学全集54 大仏次郎集』(集英社)には、「作家と作品 大仏次郎」を書いているが、その論考は32ページにも及び、1冊の本にもなるような、小松伸六の「大佛次郎論」に集大成になるものであった。そして、昭和46年1月刊の『ジュニア版日本文学名作選 第53巻 鞍馬天狗』(偕成社)に「解説」を寄せたが、ここでも、「そのころわたしは、北海道の北のはての釧路という港町の中学生でしたが、『鞍馬天狗』を愛読、そして四十年後の現在読んでも、内容も文章もすこしも古くはありません。『角兵衛獅子』などは少年少女の古典といってもいいのではないでしょうか」と書いている。昭和51年5月に刊行された大佛次郎『帰郷』(旺文社文庫)にエッセイ「私を再発見させてくれた本」を寄せている。

大佛次郎は、『朝日新聞』に『天皇の世紀』執筆の連載を続けていたが、これが絶筆となり昭和48年4月30日に76歳で死去した。小松伸六は、『週刊読書人』5月21日号に大佛次郎追悼「精神的貴族・大佛次郎の死・日本に生まれた知識人の“悲劇”」(未見)を寄せている。

昭和52年12月刊『筑摩現代文学大系53 大佛次郎海音寺潮五郎集』(筑摩書房)には、「人と文学」を書く。昭和61年10月発行の『神奈川近代文学館』第14号「大衆文学展特集〉」には「鞍馬天狗」(未見)を書き、同月に神奈川近代文学館で開催された展覧会の図録『大衆文学展 よみがえるヒーローたち』(神奈川文学振興会)に「鞍馬天狗」を寄せた。

中学時代に出合い、それ以後大佛次郎の作品を読み続け、大衆文学から現代文学まで幅広い文芸評論家として歩んだ小松伸六にとって、大佛次郎は大きな文学の先輩であったに違いない。

なお、古書店に「鞍馬天狗記念館」(400字詰4枚)の原稿が出回っているが、いつ書いて、どこに発表したものかわからない。

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小松伸六が解説などを寄せた、大佛次郎の文学全集、文庫、雑誌など。

小松伸六ノート⑥  原田康子と小松伸六

小松伸六ノート  原田康子と小松伸六

 

昭和60年10月、『北海道文学大事典』(北海道新聞社)が刊行され、小松伸六の項に「文芸評論家として新人発掘の炯眼には定評があり、原田康子の「挽歌」にいち早く注目し」(神谷忠孝)とある。また平成元年10月に『昭和文学全集 第33巻』(小学館)が刊行、『美を見し人は―自殺作家の系譜』の「生田春月」が収録され、そこに小松の簡単な略歴が記され、「『文学界』の同人誌評で原田康子らの新人を発掘、その炯眼には定評がある」とある。この2つの記述は、少し正確ではないような気がする。

おなじ北海道の釧路を故郷とする原田康子(1928~2009)について、『文學界』の「同人雑誌評」で小松が原田に最初に触れたのは、昭和32年7月号である。『挽歌』(東都書房)が刊行されたのは、昭和31年12月だから、すでにベストセラーになって半年余りたっている。この時小松は、70冊余りの同人誌を目にして。「―とくにガリ版ずりに多いが――どこか汚れていない、清潔なものが多かった」といい、そのあと原田の「挽歌」に触れる。

 

「いま「挽歌」原田康子氏をひきあいにだせば、彼女は東京を全く知らず、文学的立志と上京を結びつけることもなく釧路から出ているガリ版の同人誌「北海文学」にひそかに連載した。しかもそれは一種のハイマート・クンストとして、具眼の士にとまり、何十萬とかいう文学外讀者までひきつける鮮やかに時流をきった出現だと思うが―。」

 

小松が『文學界』に「同人雑誌評」を書いたのはこの時初めてで、8、9月号にも「同人雑誌評」を寄せ、以後久保田正文駒田信二・林富士馬とともに昭和56年まで続けるのである。小松が『文學界』で原田康子を発掘したという記述が、正確ではないことは明らかである。ただ、それ以前に、他所で原田康子の「挽歌」に言及しているかも知れない。

小松は、昭和32年2月4日の『日本読書新聞』に「同人雑誌評 土着性こそ地方誌の特権-風土的な特異性をもつ北海道誌」(未見)を寄せているがこの時「挽歌」に触れている可能性がある。小松は、3月釧路の父伝三の危篤の報で帰郷、その時原田康子に会っていることは、「小松伸六ノート 第四次『赤門文学』」で触れた。そして4月15日の『北國新聞』に、「日本文学の土着性 『挽歌』の投げた波紋」(未見)を寄せている。かつて金沢で世話になった北國新聞社からの依頼で書かれたものと思われるが、地方新聞ゆえ多くの人の目に触れることがなかったと思われる。いずれも未見だが、どのように書かれていたのか興味深い。

それ以後小松は、原田康子についてたびたび触れることになる。6月17日の『日本読書新聞』に、原田の二冊目の単行本『サビタの記憶』を取り上げた「女流新人の小説集二つ」。7月15日の『日本読書新聞』には、原田康子の「挽歌」ブームに触れた「ムード新人論」という大きな記事を寄せる。そこには、こんなことも書いている。

 

「つい先日クシロの姉から便りがあり、いま釧路は原田康子さんの「挽歌」ブームで、〝怜子〟喫茶店、挽歌軒、〝アゲーン〟酒場など「挽歌」に関係あるお店が続出し、自動車にも挽歌号、駅のポスターまで「挽歌の北海道へ」という広告、その上六月末のある日、前大臣の鹿島守之助氏(北海道長官)が来釧の際には、激務をさいて夫婦で早朝、原田さんに面会を申し込み、ひととき閑談した由、いまにクシロ名物啄木センベイと同じようにバンカマンジュウもできるかもしれませんよと云ってきた。」

 

翌昭和33年の『旅』7月号に、小松は「二つの表情をもつ釧路」を寄せているが、「文学的な霧の街」として、石川啄木の「さい果ての街」、原田康子の「挽歌」に見る「ヨーロッパ風の街」に触れている。そこには、「釧路の海や、住宅を見下ろす丘に立つ原田さん」とキャプションのある、写真家細江英公氏が撮った2葉の写真が載っている。12月1日の『讀賣新聞』には「現代作家に望む⑪原田康子さん」を寄せ、「原田さんはせっかく釧路にいるのだから、東京のアスファルト文学の支配に対抗するような地方文学の独立性を主張する長編をぜひ見せてほしい」とエールを送る。昭和35年7月31日『読売新聞』朝刊には「よろめき夫人 日本の奥さま⑭」と題して原田康子の『挽歌』に触れ、『旅』10月号に「阿寒を描いた文学」で原田の阿寒を描いた作品に触れる。『週刊朝日』昭和41年12月9日号の「ふるさとを行く㊾北海道」では、「「挽歌」の原田康子さんも釧路を離れた」と、昭和34年に夫の札幌転勤のために釧路を離れた故郷を懐かしむ。小松は、確かに機会あるごとに作家原田康子を語り続けたのである。

その後小松伸六と原田康子は、昭和42年10月、第1回「北海道新聞文学賞」から選考委員を務めている(小松は平成8年度第30回まで、原田は平成19年第41回まで)。43年8月4日には、「釧路開基百年記念文化講演会」が釧路公民館で開催され、小松伸六、原田康子、船山馨の3人が「北海道の文学運動」と題して講演(翌年の『釧路春秋』第3号に収録)をしている。二人は、会うたびに、故郷釧路を語り合っていたに違いない。

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原田康子『挽歌』、『文學界』(昭和32年7月号)、その他

富士霊園文学碑公苑に小松伸六の名が刻まれている

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

昨年11月に再開したブログも、色々と多忙で更新できませんでした。その一番大きな仕事が、『生誕130年記念誌 三上於菟吉再発見』(三上於菟吉顕彰会・編)の編纂、2月4日発行に向けて、最終段階に入っています。

そして、釧路文学館で「没後30年 文芸評論家・小松伸六の仕事展」が、7月末から9月末までの3ヶ月間の開催が決まりました。いまそのお手伝いをはじめていますが、なんとか成功させたいと思っているところです。

下記の写真は、昨年10月24日、静岡県にある富士霊園の文学碑公苑にで出かけたときのものですが、小松伸六の名前が、代表作『美を見し人は』と共に刻まれていました。

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『北方人』第35号を発行しました

 

10月15日、『北方人』第35号を発行しました。1年に3冊は出したかったが、今年の2冊目で、次は来年春の予定。なお、目次を下記に乗せた。

――目次――

時評/首都ベルリンのコロナ抗議デモ――――――――――――  大木 文雄(2)

創作/昭和十年生れは損をする(5)―風の子から街の子へ ――- 通 雅彦(4)

評伝/ゲーテと植物ゲーテヴァイマル時代に植物をどのように愛したか

                               大木文雄(10)

評論/集団就職文学論ノート(2)―――――――――――――― 荒川 佳洋(22)

評論/戸川静子の作家人生と、いくつかの黒い傷。――――――― 川口 則弘(29)

評論/釧路湿原文学史(16)―――――――――――――――― 盛 厚三(37)

書誌/装丁挿話(11)――――――――――--―― かわじ もとたか(Ⅰ[47])

編集後記――-―――― [K] (48)  表紙画・カット―パリの古絵葉書より

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