小松伸六ノート ちょっと寄り道③

小松伸六はいつから、自らを「拾い屋」と呼んだか。

 

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今日の「ちょっと寄り道」は、小松伸六が『文学界』の「同人誌批評」時代の話。

角川書店の編集者として活躍した芸評論家・山本容朗(1930―2013)に、「新人作家の発掘家 浅見淵」(『現代作家その世界』所収、昭和46年、翠楊社)という一文があり、小松伸六のことが出てくる。

“文壇用語には、時々面白いのがある。「拾い屋」なんてのがある。バタ屋、クズ屋のたぐいを連想させる。多少イローニィッシュ(皮肉)にも聞こえるが、小松伸六氏の発明によるもの。小松氏をはじめ『文学界』の同人雑誌評のメンバーが、十年間も、現在でも毎月百冊以上の同人雑誌を読んで、新人紹介をしている。ご苦労さんというわけで、版元の文芸春秋から時計をもらった。それを小松氏が、某紙に書いた。二年ほど前のことだったが、その辺から「拾い屋」という言葉が流布されるようになったと思う”

「拾い屋」という称号を付けたのは、小松が「某紙に書いた」とあるから彼自身のようであるが、浅見淵の『現代作家その世界』は、それまで書いたものをまとめたものなので、いつ書いたのは不明。さらに山本は、続けて「新人作家の発掘家 小松伸六」を書いているが、「小松氏の批評は、その簡素な文章とあいまって、親切で、なかでも小説の要領のいいダイジェストの術で、この人の上にいく批評家といったら、死んだ十返磬ぐらいだろう」と、べた褒めである。

その3年後に出た『人脈北海道 作家・批評家編』(昭和49年、北海道新聞社)に、「拾い屋 小松伸六」があるが、これは北海道新聞社の記者が「北海道新聞」に連載した「人脈北海道」の再録。

“小松にいわせれば、同人雑誌評というのは日本しかないのだそうだ。(中略)中里介山は「大菩薩峠」の中で、わが国大手出版社の社長をさして「紙屑拾いののろまの〇〇」と書いており「拾い屋」の称号のヒントはここから得たといっている。”

この一文を読むと、小松が「某紙に書いた」一文のなかに、中里介山の「大菩薩峠」からヒントを得たと書いたようである。また「拾い屋 小松伸六」には、柴田翔の「されどわれらが日々」を最初に『文学界』に載せるかどうかでモメた時、「小松が学生の心をつかむ作だと強く推している」とあり、それが第51回芥川賞を受賞するのである。

さて、小松が自らを「拾い屋」と呼んだのはいつごろか。昭和35年3月22日号の週刊誌『コウロン』の記事「現代女子学生の“オント”」が、『別冊新潮 裸の文壇史』(昭和48年)に再録されている。これは作家倉橋由美子が在学中だった明治大学の『明治大学新聞』に掲載された小説「バルタイ」が『文学界』に転載され、注目されるという女性作家の誕生を扱った記事であるが、そこに「多忙を歎く文壇の拾い屋」と題された一文がある。

“近頃の文壇には、誰が名づけたのか知らぬが、〝拾い屋〟というケッサクな呼び名がある。全国に数百と言われる同人雑誌の小説を、コツコツ読みつづけて、批評し、紹介している批評家たちのことである。”

そして小松は、週刊誌『コウロン』から「倉橋由美子」について聞かれたらしく、「拾い屋として申し上げれば、『バルタイ』は近来出色の〝ひろいもの〟であることは、マチガイなし。既成文壇をあざやかに斬っている面も見える(後略)」という意見を述べている。

昭和35年と言えば、昭和32年に、久保田正文駒田信二・林富士馬、そして小松伸六が『文学界』の「同人雑誌評」を担当するようになって3年目である。つまり、この頃小松が「拾い屋」と「某紙に書いた」ようで、文壇のなかで一般に使われるようになったらしい。

さて、「二十数年にわたって『文学界』で同人雑誌評を試み、文学を志す者に大きな励みを与えるとともに、数多くの作家を育成した功績」で、久保田正文、林富士馬、駒田信二らと共に第二十七回菊池寛賞受賞したのは、昭和54年10月のこと。山本容朗が「版元の文芸春秋から時計をもらった」と言うのは、それ以前の別の出来事らしい。昭和54年のこの「菊池寛賞」は、正賞として時計、副賞として100万円が授与されている。時計は4人分?副賞100万円は4人で分けたのだろうか。割り切れるからよいが、勝手な想像をしてみた。