小松伸六ノート⑪  渡辺淳一と小松伸六

渡辺淳一と小松伸六

 

小松伸六が、北海道生まれの直木賞作家渡辺淳一(1933~2014)を知ったのは、昭和39年から『北海道新聞』の「道新秀作評」を担当していた時であった。この年下半期の道内同人誌秀作で渡辺淳一の「華やかなる葬礼」に評価を与えた。その作品との出会いを、小松は次のように回想している。

 

「渡辺さんの作品は、札幌から出されていたタイプ版の同人雑誌『くりま』(昭和39年ころ)で拝見していたから、私はもっとも古い読者の一人でないかと思う。『くりま』には(中略)、東京の文芸雑誌にも登場してくる人たちがおり、同人誌の都市対抗でもあれば札幌の『くりま』は優勝するかもしれない、と冗談に書いたこともある。渡辺作品で初めて強烈な印象を受けたのは、脳腫瘍の母の死をテーマにした『華やかなる葬礼』であった。」(「十五年前の渡辺さん」)

 

渡辺が、『新潮』12月号に「華やかなる葬礼」を改稿した「死化粧」を寄せ、それが新潮同人雑誌賞候補作として掲載され、同月、第12回新潮同人雑誌賞を受賞する。翌昭和41年1月には『新潮』に再掲載され、第54回芥川賞候補となった。渡辺淳一33歳の時である。渡辺は、その時の思い出を、昭和52年10月号の『文学界』の特集「同人雑誌と私」に「『くりま』と私」と題して寄せている。

 

「三十九年末に発表の「華やかなる葬礼」は、小松伸六氏の賛辞を受けた。無名の私には嬉しく励みになった。この「華やかなる葬礼」は、のちに「死化粧」と改題し、新潮同人雑誌賞を受け、芥川賞候補にもなった。」(「『くりま』と私」)

 

渡辺は作家専業となるために、札幌から昭和44年に上京している。そのころ、東京の小松の家を訪ねている。道内同人誌秀作での賛辞に対するお礼の訪問であったに違いない。小松は、「直木賞を受ける前に一度、私の家であったような記憶がある。外科医、執刀医ときいていたので、どんなに、いかつい人かと思ったが、色白のやさしそうな美男子であったのに驚いた。」(「十五年前の渡辺さん」)と書いている。その渡辺が、「光と影」で第63回直木賞を受賞したのは、その翌年の昭和45年7月のことであった。

その後小松は、渡辺淳一の文庫本の解説を5冊残している。

渡辺淳一『死化粧』(1971年、角川文庫)

『くりま』に収録された作品などを収録。「渡辺作品は、北方が生んだハイマート・クンスト(郷土小説)であり、レジオナリズム(地方主義)の文学である。」と書く。

渡辺淳一『光と影』(1975年、文春文庫)

「これが実人生というものかと、暗い感動をよびおこす秀作である」と、昭和45年7月の第63回直木賞受賞作などを収録。

渡辺淳一『阿寒に果つ』(1975年、文春文庫)

冬の阿寒湖で自殺した天才少女を描いた作品だが、「私事になるが、私は阿寒に入る町の一つ、釧路で生まれ、戦後の一時期、札幌にいたことがあり」と、その後金沢の教師時代に自分の家で自殺した四高生と天才少女の自殺を重ねる解説である。

渡辺淳一『白き手の報復』(1975年、中公文庫)

「白き手の報復」など短篇6編を集めた小説集。「エンターテイメント的勝訴の濃厚な〈黒い小説〉集である」と書く。

渡辺淳一『恐怖はゆるやかに』(1977年、角川文庫)

 「恐怖はゆるやかに」「北方領海」の2作を収めた作品集。「北方領海」について、「私事になるが、私は北洋漁業の基地となっている釧路市生れで、(中略)この作品の舞台に鳴っている根室、ノサップ岬にも、三回ほどいっているが、これほどはっきり「国境」という、比喩的にいえば、黒いガス(霧)のかかっている国境という現実を見せられる場所は日本にない」と書く。そして最後に、渡辺には、「ルポルタージュとして、北方領土問題、安全操業問題を報告した「奇々怪々の北方領海」(昭和44年11月、総合誌「潮」)という、すぐれたドキュメントあることもつけ加えておきたい」と書いている。

 

昭和55年(1980年)12月刊の『渡辺淳一作品集 第7巻』(文藝春秋、全23巻)月報12に「十五年前の渡辺さん」に15年前の初対面ことを書いている。昭和57年3月には、渡辺淳一『午後のモノローグ』(非売品、文藝春秋)が刊行され、「十五年前の渡辺さん」が再録された。なお、『渡辺淳一作品集 第7巻』には、小松の生れた釧路を舞台とした「海霧の女」が収録されている。

その後渡辺淳一は、昭和57年度の第16回から小松伸六ともに北海道新聞文学賞の選考委員を務めている。平成7年度の第29回選考会が、10月13日に東京で開催され、小松も渡辺も出席している。この時小松伸六は80歳、ご遺族の話によれば、当時体調がすぐれなかったが、渡辺淳一に会えると北海道新聞からの迎えの車が来て出かけたというから、この時2人が会ったのが最後かも知れない。小松は、翌平成8年度の第30回まで勤めているか、この時は欠席し、以後は辞退している。2人はそれまで、東京の選考会会場で幾度も顔を合わせていたに違いない。ちなみに渡辺は、選考委員平成20年度の24回まで勤めた。

平成7年4月刊、加清純子遺作画集『わがいのち『阿寒に果つ』とも』(青蛾書房)に、渡辺淳一『阿寒に果つ』(中公文庫)に書いた「解説」が収録される。平成21年8月には、中国で渡辺淳一『光と影』(昭和五十年刊、文春文庫)の中国語訳本『光与影』(杜勤訳、文匯出版社)が刊行され、小松の「解説」が中国語訳で収録されている(現在、中国から取り寄せ中)。平成10年(1998)6月に『渡辺淳一の世界』(集英社)が刊行され、「華やかなる葬礼」が載った『くりま』が図版として載り、キャプションに「昭和39年、北海道新聞社の「道内同人雑誌秀作」に選ばれ、小松伸六氏の評価を受けた」とあり、渡辺淳一の「『くりま』と私」も再録されている。それ以後渡辺淳一は、日本を代表する作家として、『失楽園』など数々の作品を残して活躍した。

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『『渡辺淳一作品集』第7巻と「月報」、『渡辺淳一の世界』(集英社)、解説を寄せた文庫など。