『三上於菟吉再発見ー生誕130周年記念誌』が刊行されました

 

2月4日は、『雪之丞変化』の作者三上於菟吉が生まれた日で、生誕130年を迎えました。三上が生まれたのは、今の埼玉県春日部市、そこに三上於菟吉顕彰会が発足、このほど生誕130年を記念して、『三上於菟吉再発見ー生誕130周年記念誌』が刊行されました。小生、「翻訳時代から大衆文学作家へ」、ペンネーム潤幸造で「代表作「雪之丞変化」誕生と、その後」を寄せました。この冊子を企画し、刊行の尽力されたのは直木賞研究家の川口則弘氏です。彼のHPに刊行のいきさつ等、詳しく載っています『三上於菟吉 再発見 生誕130周年記念誌』-「直木賞のすべて」 (prizesworld.com)。問い合わせは、三上於菟吉顕彰会へHOME | yukinojo (wixsite.com)

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目次

刊行に当たって

三上於菟吉先輩のこと……北村 薫

講演録

三上於菟吉長谷川時雨―たぐい稀なる夫婦の物語―……尾形明子

論考

三上於菟吉の人と文学……槍田良枝

「百万両秘聞」から小説家三上於菟吉誕生の背景を探る……新井義昭

於菟吉以前の事 付 春日部市内の三上於菟吉関係地メモ……実松幸男

於菟吉と粕壁中学校……大川明弘

粕壁中学時代の文学的萌芽……福島隆男

翻訳時代から大衆文学作家へ……盛 厚三

悪を撃つ自由―青年三上於菟吉の侠気……荒川佳洋

代表作「雪之丞変化」誕生と、その後……潤 幸造

直木賞に刻まれた大衆文芸観……川口則弘

作品再録

随筆 原稿贋札説

小説 雪之丞後日

三上於菟吉年譜

 

小松伸六ノート⑭ 城山三郎と小松伸六

城山三郎と小松伸六

 

経済小説の開拓者といわれ、いまでも多彩な作品は多くの読者をひきつける城山三郎(1927~ 2007)。城山は、小松伸六の13歳下だったが、その作家としての出発から、不思議な長い交友関係にあり、城山文学を語り続けた。小松伸六は、城山三郎との出会いを次のように書く。

 

「城山さんは、醒めた人、真面目な方―それが私の第一印象だった。文学界新人賞を受けた「輸出」(昭和三十二年)の前に会った印象である。(中略)私が城山さんを存じ上げたのも、氏と私の共通の、詩人であり英文学者永田正男氏の紹介である」(「硬派の城山さん」)

 

永田正男(1913〜2006)は、アメリカ文学者で詩人であり、戦後は名古屋で城山三郎が参加した「くれとす会」主宰していた。小松は東京帝国大学大学院時代、昭和17年に刊行された『赤門文学』(第2巻第8・9月合併号/昭和17年8・9月号)に内海伸平のペンネームで「太宰治論」を書いたが、その号に永田正男は詩「独楽」を寄せているから、かなり早くから面識があったと思われる。

戦後の昭和30年、小松伸六は、第4次『赤門文學』を刊行する。永田は同人として参加し、11月発行の『赤門文学』3号に詩「殺生の戒め」、4号に詩「眞冬の夜の夢」、6号に詩「わが少年期」を寄せ、そして昭和32年11月発行の9号に詩「わが青春期」を寄せている。

城山三郎が、永田正男の推薦で『赤門文學』の同人になったのはこのころと思われ、城山は、この11月発行の9号に「地方に居て」という随筆を寄せている。「永田氏をはじめ四人の仲間で私たちは読書會をつくり、すでに三年以上にわたって、一月も欠かすこともなく、一人も休むことなく、文学の勉強を続けてきた」と、永田正男が主宰する名古屋での読書会「くれとす」について書く。城山は、昭和32年3月に名古屋市千種区の城山八幡宮に転居、ペンネームの城山三郎は、ここに来てから使うようになったという。昭和32年7月、「輸出」で第4回文学界新人賞を受賞、『文學界』7月号に城山三郎「輸出」が掲載され、作家への一歩を踏み始めていた。なおこの号に小松伸六は、はじめて「同人雑誌評」を寄せている。この城山の「輸出」は第38回直木賞の候補となり、この年12月には、神奈川県茅ヶ崎市に転居していた。城山と小松が初めて会ったのはこの頃と思われる。城山は、昭和33年10月発行の『別冊文藝春秋』66号の「総会屋錦城」で直木賞候補になり、34年1月に第40回直木賞を受賞する。

直木賞受賞直前の城山は、1年余りの休刊後に出た昭和33年12月発行の『赤門文学』10号に歴史小説「鳩侍始末」を寄せている。小松は「編集後記」のなかで、「さて十号は新しい同人の小説でかざった。城山君は「輸出」で「文学界」の新人賞をもらったひと。めずらしく歴史小説である」と書く。その数か月後に直木賞を受賞するとは、思いもかけぬ出来事であったかも知れない。以後城山三郎は、経済小説の開拓者となって多くの作品を書き続けて行く。

昭和35年1月、城山三郎『乗取り』(光文社)の出版記念会が銀座東急ホテルで開催された。小松は、吉川英治について書いたなかで「城山三郎氏をはげます会があったときに、吉川さんの話を一メートルもはなれないところで聞くことができた。たまたま、私が城山さんのパーティの司会をやっていたからだ」(「「宮本武蔵」のこと」、『吉川英治全集』月報14、昭和41年7月)と書いている。その時、石原慎太郎や 文芸春秋社長池島信平らが出席していたという。この小説は、横井英樹が起こした「白木屋乗取り事件」がモデルと言われる。この出版記念会に呼ばれていないはずの横井が乗り込んで一席ぶってから帰ったという話は、当時の大きな話題となったが、この出版記念会のことは、城山三郎も「励ます名人」(『吉川英治全集』月報44、昭和44年9月)のなかで触れており、小松も写っている写真が掲載されている。

なお、小松伸六がはじめて城山三郎の文庫に「解説」を寄せたのは、昭和38年11月に出た直木賞受賞作を収録した新潮文庫の『総会屋錦城』だが、その後に確認できただけで6冊、全部で7冊の文庫に「解説」を寄せている。

城山三郎『総会屋錦城』(1963年、新潮文庫)

城山三郎『風雲に乗る』(1972年、角川文庫)

城山三郎一発屋大六』(1973年、角川文庫)

城山三郎『イチかバチか』(1973年、角川文庫)、

城山三郎大義の末』(1975年、角川文庫)

城山三郎『鼠/鈴木商店焼打ち事件』(1975年、文春文庫)

城山三郎『価格破壊』(1975年、角川文庫)

いずれの「解説」も、城山作品の詳しい解説や経歴、人柄などを寄せているが、ロングセラーとなっている作品もあり、いまも多くの人に読み続けられている。ひとつだけ文庫の「解説」から小松の言葉を引くが、『総会屋錦城』(新潮文庫)の解説に、「私は冗談に、氏を「足軽作家」と書いたことがあるが、それはこれからの良心的な作家は、少くとも、調べる、足で書くことを要求されると思ったからである」とある。これと同じような一文が『鼠/鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫)の「解説」に「決して軽蔑して言ったわけではなく、足で書く人、よくしらべて書く作家というほどの意味である」ともある。小松が、城山三郎を「足軽作家」とどこで触れたかはわからないが、一部には誤解されて伝わっていたようで、幾度も触れることとなる。

昭和55年に『城山三郎全集』全14冊が刊行され、小松は、4月刊の『城山三郎全集 第3巻』(新潮社)付録3に「硬派の城山さん」を寄せ、最後にこう記す。

 

「私は直木賞受賞作「総会屋錦城」(昭和33年)の「解説」で「昭和三十年代の日本の文壇に二つの事件があった。一つは松本清張氏を頂点とする推理作家の流行、一つは城山三郎意地を、そのパイオニア(先覚者)とする経済小説の出現である」と書いた。そうした意味もあり、親しくしていただいている私にとって、いま城山さんの全集が出ることは、大変うれしいことである。」(「硬派の城山さん」)

 

親しく交友があった2人であったが、平成18年3月20日、小松伸六は肺炎のため91歳で死去。かつて金沢で関係した『北国文化』の流れを組む『北國文華』が、6月刊の28号で特集「追悼・小松伸六氏」を組み、城山三郎からの談話「作家の背を押す文芸評論家」を載せている。「小松さんとの出会いは私にとって幸運でした」と語り始める。

 

「どういう機縁で小松さんと会ったのか記憶は定かでありませんが、「輸出」という作品が『文学界』新人賞を受賞し、その後、相次いで同誌に作品を発表したことから、このころ『文学界』で同人誌評を担当し始めた小松さんと面識を得たのじゃないかと思います。

小松さんは、私の作品について、ここがいい、ここはむしろこうした方がいいんじゃないか、こういうふうに書く手もある、などと丁寧な読み方をしてくれました。作家の側に立った評をしてくれたのです。私の作品は当時としては目新しい経済小説でしたから、こういうのは小説じゃない、などという評も聞こえてきました。文芸評論家はよく勉強しているので、作家の書くものをあれこれ批評するのはお手のもんなんです。悪い表現を使えば、作家を食い物にして自分の名をあげようとする人もないわけではありません。しかし小松さんはそうではなかった。作家のよい所を取り上げていく人でした。私が小松さんと出会って幸運だったというのはそういう意味です。」(城山三郎(談)「作家の背を押す文芸評論家」)

 

引用が長くなったが、文芸評論家としての小松伸六の人柄について触れている。『赤門文学』時代に世田谷の自宅を訪ねたことも語り、最後に「小松さんのような文芸評論家はもう出ないでしょう」と語る。しかし城山三郎は、翌平成19年3月、小松伸六の後を追うように79歳で亡くなった。

平成16年12月には、『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』(齋藤愼爾編、メタローグ)が刊行され、城山三郎『総会屋錦城』(新潮文庫)に寄せた小松伸六の「解説」が、名解説のひとつとして収録された。

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城山三郎全集』の付録に寄せた小松の「硬派の城山さん」。「解説」寄せた文庫と『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』。城山が『赤門文学』に寄せた「鳩侍始末」「地方に居て」。『北國文華』の城山三郎からの追悼談話「作家の背を押す文芸評論家」。

小松伸六ノート⑬ 新田次郎と小松伸六

新田次郎と小松伸六

 

「昭和三十年代の日本の文壇に三つの事件があった。一つは松本清張を頂点とする推理小説の流行、一つは城山三郎を先覚者とする経済小説の出現、そして一つは新田次郎を、そのフロンティアズ・マン(開拓者)とする山岳小説の登場である」(新田次郎『先導者・赤い雪崩』昭和52年、新潮文庫)と、小松伸六が「解説」に書いているが、その3人の作品について、小松は多くの解説などを残している。既に松本清張について触れたが、今回は昭和31年に『強力伝』で第33回直木賞を受賞した、新田次郎(1912~1980)と小松伸六の関係について触れてみたい。

小松が、新田次郎に直接会ったのは、昭和35年10月号の『山と高原』「第1回・山岳文学賞」を串田孫一新田次郎らと選考委員を務めた時であったと思われる。その誌に、お互いに選評を寄せていたに違いない(未見。この文学賞は1回のみで終ったようである)。その時小松は45歳、新田は48歳であった。そして小松は、昭和39年5月刊の『新日本文学全集26 南條範夫新田次郎集』(集英社)「月報28」に「千手観音的次郎氏」を寄せ、次のように書く。

 

「新田さんは若いころ、六年間も富士山測候所に従事して本物の山岳人だから、ただの登山家と違う「勁(つよ)さ」をもっている人なのである。つまり「山に溺れる」ような甘い山の小説家でなく、「山に溺れない」山岳小説家なのである。」

 

小松は、昭和37年7月、新田次郎の文庫として『縦走路』にはじめて「解説」を書く。

新田次郎『縦走路』(1962年、新潮文庫

昭和33年に発表されたこの作品の「解説」を書くにあたって、「こんど読みかえしてみて、やはり楽しかった。鮮度が落ちていないのである」と書く。

新田次郎『強力伝・孤島』(1965年、新潮文庫

昭和31年に第33回直木賞した「強力伝」など6作品を収録した短篇集で、「いずれも山岳小説に新風をひらいた作者の初期の代表作である」と書く。

新田次郎『先導者・赤い雪崩』(1977年、新潮文庫

冒頭に、小松の「解説」から一部を引用したが、「ここに収められている『先導者』ほか七編の作品は、いずれも山を背景に自然の掟と人間の対立、あるいは人間と人間との葛藤を」描いたものだという。

新田次郎昭和新山』(1977年、文春文庫)

新田次郎は〈白の作家〉といいかえてもいい。(中略)新田次郎の魅力は、やはりその〈白〉にあるのではないかと、私は思う」と、随筆集『白い花が好きだ』についても触れている。

新田次郎『ある町の高い煙突』(1978年、文春文庫)

「大正のはじめ、世界一、高い煙突をたてることにより、銅山の精錬所から出る煙害をなくそうとして立ち上がった青年たちの誠実な足跡を描いた長編小説である」(解説)。2019年6月、新田次郎の記念すべき映画化10本目となって封切された。この年文春文庫の新装版が映画化に合わせて刊行され、小松の「解説」が再収録されている。

新田次郎『怒濤の中に』(1979年、文春文庫)

〈海〉に関した6つの作品が収録されている。解説のなかで、小松の甥である小松錬平(「テレビ朝日」のニュースキャスターを務めた)と新田次郎が面識があり、小松錬平が新田に講演を頼んだが断られたとのエピソードを書いている。

新田次郎『氷原・非情のブリザード』(1979年、新潮文庫

小松の解説は、昭和55年2月15日に新田次郎が亡くなり、読売新聞からの電話からはじまる。「私は一瞬絶句した。頑健そのものといっていい、山男の新田さんに〈死〉が襲撃するとは信じられなかった。私は悲報で混乱しながら何かをしゃべった」とある。2月25日の青山斎場の告別式では、「白菊でうめられた富士山の冬景色の祭壇の上に、微笑をたたえた新田さんの遺影があった」と書き残している。

新田次郎『雪の炎』(1980年、文春文庫)

「この作品は、何故か新田次郎全集二十二巻(新潮社版)に入っていないエンターテインメントに徹した作品として除外したのであろうか」と言い、「私のとって新田作品のなかでこのロマンは最もよく出来た長篇小説の一つ」と書く。

新田次郎の文庫に解説を寄せたのは、上記の8冊と思われるが、多くがロングセラーになっており、いまでも刊行が続けられている。そして、『昭和新山』(文春文庫)にまつわる余談をひとつ。ここに収められた「昭和新山」は、『文藝春秋』昭和44年11月号に掲載されたものだが、この小説誕生のエピソードがエッセイ「釧路の丹頂鶴」(『北の話』昭和48年9月・56号、あとに『続・白い花が好きだ』昭和53年、光文社に収録)にある。それによれば、昭和35年の夏、妻で作家である藤原ていとの結婚30年を記念の北海道旅行に出かける。札幌から網走をめぐり釧路へ、「釧路の大湿原に棲息している丹頂鶴を見に行こうではないか」と2人は、タクシーで釧路湿原地帯に探しに出かけるが見ることが出来ず、それが原因でとうとう妻と喧嘩になる。釧路に一泊する予定だったが札幌へ、妻はさっさと荷物をまとめて東京に帰ってしまう。新田次郎は翌日、1週間ばかり洞爺湖に滞在する。「この間昭和新山にも登った。私が小説『昭和新山』を書いたのは東京に帰ってからのことである」と書いている。

ちょっと話がそれてしまったが、昭和55年2月15日、新田次郎が69歳で死去する。小松伸六は、『讀賣新聞』夕刊にコメント、2月24日の『公明新聞』に「努力と誠実の生涯 新田次郎氏追悼」を寄せ、「質実剛健な作風」の作家であったと長文の追悼文を書く。そして、25日に青山斎場で行われた葬儀に出席し、新田次郎を偲んだ。

翌年小松は、昭和56年1月刊の『別冊新評 新田次郎の世界』に「新田次郎の魅力」を寄せる。ここでは、山岳小説のみならず歴史小説、時代小説、伝記小説、ミステリー小説など幅広い作品を残した、新田次郎文学の魅力を「小説道の武芸百般に通じた作家」として、余すことなく伝えてくれる。こんなエピソードもある。「十年も前になるだろうか。十二月になると毎年、B出版社はB社に関係が深い作家、評論家、漫画家らを熱海のKホテルに一泊どまりで招待してくれた」。B出版社とは「文藝春秋社」のことで、その時同部屋になったという。「新田さんの、とつとつとしゃべる話は面白かった。特に武田信玄を書きだした頃だったのだろうか。(中略)朝の四時ごろまで話しておられた」という。またその時、深田は「若い人たちといっしょにツイストをはじめた。うまいのである」といい、部屋に帰ってから「学生時代(現在の国立電気通信大学)、これでも社交ダンス会で優勝したこともあります」と語ったという。

昭和62年4月刊の『少年少女日本文学館』(講談社)第29巻「強力伝・高安犬物語」に「解説」を寄せる。この本には、新田次郎「強力伝」、戸川幸夫「高安犬物語」、田辺聖子「私の大阪八景」が収録され、それぞれに「解説」を寄せている。城山の作品「強力伝」について、主人公に命を救われた「石田」は、「新田次郎ドッペルゲンガー(分身)ともいえる」と書く。

そして、平成17年2月の小松伸六90歳の時、『新田次郎文学事典』(新人物往来社)が刊行され、「主要作品解説再録」として、『強力伝・孤島』(新潮文庫)の「解説」が再録された。

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新日本文学全集26 南條範夫新田次郎集』、『新田次郎文学事典』、『少年少女日本文学館』、『別冊新評 新田次郎の世界』、解説を寄せた文庫など。

 

小松伸六ノート⑫ 五木寛之と小松伸六

五木寛之と小松伸六

 

昭和42年1月、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞受賞した五木寛之(1932年~)に、小松伸六が初めて出会ったのはいつかわからないが、小松は「私は五木さんに三度ほど会ったことがある。親しくしゃべったのは、「小説現代」の文学風土記の取材で、金沢に行った時である」(講談社文庫『ソフィアの秋』解説)と書いている。

五木寛之は、早稲田大学中退後広告代理店に勤め、作詞家などを経て昭和40年に仕事をやめ、ソ連、北欧などをめぐり、帰国後夫人の住む金沢に住を構えていた。翌41年4月、『さらばモスクワ愚連隊』で「小説現代新人賞」を受賞し文壇にデビュー、翌年1月に、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞受賞を受賞している。反体制的な生き方や、現代に生きる青年のニヒリズムを描いて、若者を中心に五木寛之ブームを巻き起こしていた。

小松の講談社文庫『ソフィアの秋』の文庫解説には、「小説現代」の取材での出来事をかなり書き込んでいる。この取材記事は未見だが、五木は、昭和45年1月に横浜に移転しており、昭和43年か44年頃のことと思われる。それによれば、小松が訪ねた金沢の家は、「市電の終点小立野から十分ほど歩いたところだった。小立野台地といわれる丘で、静かな住宅地である。五木宅は、岡精神病院の隣にあった」という。五木は直木賞受賞後、妻の実家である岡精神病院の隣の一軒家に移り住んでいた。小松は金沢大学の教師時代、『北国文化』のスポンサーであった岡精神病院の医院長岡良一氏とは面識があり、五木夫人にも会った記憶があるという。五木宅で2時間ほど話し、そのあと「小説現代」編集者S氏と3人で、金沢の町をめぐっている。

五木の直木賞受賞から4年後、若者を中心に五木寛之ブームが起こっていた。『週刊現代』昭和46年10月14日号『週刊現代』は、特集「圧倒的五木寛之ブームを解剖する」を組み、小松伸六にコメントを求めている。そこでどのような談話を寄せたかは詳しくわからないが、『青春の門』について、「…尾崎士郎さんの『人生劇場』を連想しますが、当人もそれは承知しているんでしょう」などと語っていたという。

昭和47年3月刊の日本文藝家協会編『1971年度後期代表作 現代の小説』(三一書房)は、小松伸六らが選考を務め、五木寛之の『オール読物』昭和46年8月号の「ユニコーンの旅」を選び、『1971年度後期代表作 現代の小説』の「あとがき」を書き、五木の休筆宣言に対して「あれだけ第一戦で活躍し、あれだけさわがれていれば、しばらく筆を断つのも賢明な生き方かもしれない」と書き、札幌郊外の精神病院を舞台とした作品に、「好短篇である」と語っている。

この年昭和47年6月には、海外小説を収録した五木寛之の『ソフィアの秋』(講談社文庫)が刊行され、小松は「休筆宣言をした五木寛之氏は、1972年現在、京都あたりに〈国内亡命〉しているのか、イベリア半島へ〈漂流〉しているのか、あるいは白夜のスカンジナビア半島へ〈はてしなきさすらい〉をつづけているのかは知らない」と書き出された18ページに及ぶ「解説」を寄せている。この年4月、五木は休筆宣言をして京都へ、そして北欧を旅行している。「解説」には、前述した、「小説現代」の文学風土記の取材の他に、「五木文学を理解するには解説を必要としない」と、処女作「さらばモスクワ愚連隊」からはじまって、多くの作品から五木寛之文学の魅力を伝えてくれる。

この47年10月1日発行の『新刊ニュース』№251には、五木寛之との対談「休筆作家の理想と現実」が載っている。二人の写真も載っているが、この時、五木寛之は40歳、小松は57歳の時である。小松の「今、ほとんど休筆ですか。」と、二人の対談がはじまる。お互いに住んだ金沢の話から五木の移り住んだ京都の町に触れ「京都と金沢の違い」を語り合い、「芸術の町に文学なし」と、小松はドイツミュンヘンを語り、五木はモスクワそしてレニングラードを語る。そして話は、「大衆作家の今と昔」「純文学と大衆文学の垣根」「通俗にして高踏な小説」と続き、実に内容の深い対談である。幾度か語り合った二人ならではの、対談であったろう。

昭和49年5月刊の『五木寛之作品集20 白夜草紙』(文藝春秋)に、小松は「解説」を寄せる。収録された作品は、「白夜草紙」「野火子」「ブルーデイ・ブルース」の3作について、15ページに及ぶ「解説」を詳しく書いている。『五木寛之作品集20』に付いている「五木寛之作品 月報20」の「編集メモ」には、小松の写真入りで、「解説者の小松伸六氏は1914年北海道生まれ、東大独文科卒、現在立教大学教授、文芸評論家。「文學界」の「同人雑誌評」を担当され、新人発掘に尽くされております。今回の「白夜草紙」の解説は、教師という立場から書かれた力作です。」書かれている。

いまも活躍を続ける作家五木寛之にとって、小松伸六は気心を許せる文芸評論家のひとりであったのかも知れない。

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五木寛之作品集20 白夜草紙』の解説、月報。『新刊ニュース』№251。講談社文庫『ソフィアの秋』(異装本2種)。

 

小松伸六ノート⑪  渡辺淳一と小松伸六

渡辺淳一と小松伸六

 

小松伸六が、北海道生まれの直木賞作家渡辺淳一(1933~2014)を知ったのは、昭和39年から『北海道新聞』の「道新秀作評」を担当していた時であった。この年下半期の道内同人誌秀作で渡辺淳一の「華やかなる葬礼」に評価を与えた。その作品との出会いを、小松は次のように回想している。

 

「渡辺さんの作品は、札幌から出されていたタイプ版の同人雑誌『くりま』(昭和39年ころ)で拝見していたから、私はもっとも古い読者の一人でないかと思う。『くりま』には(中略)、東京の文芸雑誌にも登場してくる人たちがおり、同人誌の都市対抗でもあれば札幌の『くりま』は優勝するかもしれない、と冗談に書いたこともある。渡辺作品で初めて強烈な印象を受けたのは、脳腫瘍の母の死をテーマにした『華やかなる葬礼』であった。」(「十五年前の渡辺さん」)

 

渡辺が、『新潮』12月号に「華やかなる葬礼」を改稿した「死化粧」を寄せ、それが新潮同人雑誌賞候補作として掲載され、同月、第12回新潮同人雑誌賞を受賞する。翌昭和41年1月には『新潮』に再掲載され、第54回芥川賞候補となった。渡辺淳一33歳の時である。渡辺は、その時の思い出を、昭和52年10月号の『文学界』の特集「同人雑誌と私」に「『くりま』と私」と題して寄せている。

 

「三十九年末に発表の「華やかなる葬礼」は、小松伸六氏の賛辞を受けた。無名の私には嬉しく励みになった。この「華やかなる葬礼」は、のちに「死化粧」と改題し、新潮同人雑誌賞を受け、芥川賞候補にもなった。」(「『くりま』と私」)

 

渡辺は作家専業となるために、札幌から昭和44年に上京している。そのころ、東京の小松の家を訪ねている。道内同人誌秀作での賛辞に対するお礼の訪問であったに違いない。小松は、「直木賞を受ける前に一度、私の家であったような記憶がある。外科医、執刀医ときいていたので、どんなに、いかつい人かと思ったが、色白のやさしそうな美男子であったのに驚いた。」(「十五年前の渡辺さん」)と書いている。その渡辺が、「光と影」で第63回直木賞を受賞したのは、その翌年の昭和45年7月のことであった。

その後小松は、渡辺淳一の文庫本の解説を5冊残している。

渡辺淳一『死化粧』(1971年、角川文庫)

『くりま』に収録された作品などを収録。「渡辺作品は、北方が生んだハイマート・クンスト(郷土小説)であり、レジオナリズム(地方主義)の文学である。」と書く。

渡辺淳一『光と影』(1975年、文春文庫)

「これが実人生というものかと、暗い感動をよびおこす秀作である」と、昭和45年7月の第63回直木賞受賞作などを収録。

渡辺淳一『阿寒に果つ』(1975年、文春文庫)

冬の阿寒湖で自殺した天才少女を描いた作品だが、「私事になるが、私は阿寒に入る町の一つ、釧路で生まれ、戦後の一時期、札幌にいたことがあり」と、その後金沢の教師時代に自分の家で自殺した四高生と天才少女の自殺を重ねる解説である。

渡辺淳一『白き手の報復』(1975年、中公文庫)

「白き手の報復」など短篇6編を集めた小説集。「エンターテイメント的勝訴の濃厚な〈黒い小説〉集である」と書く。

渡辺淳一『恐怖はゆるやかに』(1977年、角川文庫)

 「恐怖はゆるやかに」「北方領海」の2作を収めた作品集。「北方領海」について、「私事になるが、私は北洋漁業の基地となっている釧路市生れで、(中略)この作品の舞台に鳴っている根室、ノサップ岬にも、三回ほどいっているが、これほどはっきり「国境」という、比喩的にいえば、黒いガス(霧)のかかっている国境という現実を見せられる場所は日本にない」と書く。そして最後に、渡辺には、「ルポルタージュとして、北方領土問題、安全操業問題を報告した「奇々怪々の北方領海」(昭和44年11月、総合誌「潮」)という、すぐれたドキュメントあることもつけ加えておきたい」と書いている。

 

昭和55年(1980年)12月刊の『渡辺淳一作品集 第7巻』(文藝春秋、全23巻)月報12に「十五年前の渡辺さん」に15年前の初対面ことを書いている。昭和57年3月には、渡辺淳一『午後のモノローグ』(非売品、文藝春秋)が刊行され、「十五年前の渡辺さん」が再録された。なお、『渡辺淳一作品集 第7巻』には、小松の生れた釧路を舞台とした「海霧の女」が収録されている。

その後渡辺淳一は、昭和57年度の第16回から小松伸六ともに北海道新聞文学賞の選考委員を務めている。平成7年度の第29回選考会が、10月13日に東京で開催され、小松も渡辺も出席している。この時小松伸六は80歳、ご遺族の話によれば、当時体調がすぐれなかったが、渡辺淳一に会えると北海道新聞からの迎えの車が来て出かけたというから、この時2人が会ったのが最後かも知れない。小松は、翌平成8年度の第30回まで勤めているか、この時は欠席し、以後は辞退している。2人はそれまで、東京の選考会会場で幾度も顔を合わせていたに違いない。ちなみに渡辺は、選考委員平成20年度の24回まで勤めた。

平成7年4月刊、加清純子遺作画集『わがいのち『阿寒に果つ』とも』(青蛾書房)に、渡辺淳一『阿寒に果つ』(中公文庫)に書いた「解説」が収録される。平成21年8月には、中国で渡辺淳一『光と影』(昭和五十年刊、文春文庫)の中国語訳本『光与影』(杜勤訳、文匯出版社)が刊行され、小松の「解説」が中国語訳で収録されている(現在、中国から取り寄せ中)。平成10年(1998)6月に『渡辺淳一の世界』(集英社)が刊行され、「華やかなる葬礼」が載った『くりま』が図版として載り、キャプションに「昭和39年、北海道新聞社の「道内同人雑誌秀作」に選ばれ、小松伸六氏の評価を受けた」とあり、渡辺淳一の「『くりま』と私」も再録されている。それ以後渡辺淳一は、日本を代表する作家として、『失楽園』など数々の作品を残して活躍した。

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『『渡辺淳一作品集』第7巻と「月報」、『渡辺淳一の世界』(集英社)、解説を寄せた文庫など。

 

小松伸六ノート⑩   深田久弥と小松伸六

深田久弥と小松伸六

 

小松伸六が、『日本百名山』の著者として知られる深田久弥(1903~1971)と出会ったのは、深田が、昭和21年夏に中国大陸から復員し郷里石川県大聖寺町(現加賀市)に移り住んでいたころであった。当時金沢大学の教師をしていた小松は、深田との出会いを次のように書いている。

 

「深田さんとのおつきあいは、敗戦後の石川県大聖寺町(いまの加賀市)からはじまる。私はそのころ金沢で教師をしていたのだが、そこから出ている「北国文化」という地方文芸総合誌の編集を手伝い、深田さんには「北国文化賞」の小説部門の選者になることをおねがいにあがったことから親しくしていただいた。」(「深田さんのこと―澄み切った人だった」)

 

小松は、深田との出会いを『北国文化』と言っているが、正確にはその前身の『文華』の時代であったようである。金沢時代に親しかった俳人沢木欣一について書いた「金沢時代の沢木欣一」には、次のようにある。

 

「私は教師をしながら、北国新聞社の「文華」、のちに「北国文化」と改題された、この地方文芸総合誌の編集の手つだいもやっていた。(中略)今は山の方で有名だが、深田久弥氏などと非常に親しく、毎月、一回や二回は集まって、酒をのみ、文学むだ話をつづけ、深田宅で深夜の句会をはじめることもあった。」(「金沢時代の沢木欣一」)

 

深田久弥が、はじめて『文華』に登場するのは昭和23年7月号の「作家深田久弥を囲む座談会」で、小松、沢木欣一、西義之、加藤勝代が出席、「太宰と〝斜陽〟」などについて語り合っている。翌昭和24年6月号には「対談・地方生活と文学」があり、深田久弥と山倉政治の二人の対談の司会を小松伸六が勤めている。翌昭和23年5月が『北国文化』に改題され、11月号に深田久弥、森山啓、小松らが出席した「わが読書遍歴・座談会」が載っている。12月号には、記事「新人・旧人深田久弥、小松伸六」があるが未見である。

昭和25年3月、小松伸六は筆名小森美千代で『宮廷秘歌―ある女官の記―』を刊行している。その帯に、深田久弥が「……この筆者は、水々しい女性的な筆つきのなかに、仲々鋭い批判をもち、何物にも捕はれない自由な観察力を持つている。ここが世に流布する際物的な曝露ものと異なる所であつて、敢て世に薦める所以である……」という一文を寄せているが、「水々しい女性的な筆つき」とあるのは、小松伸六の筆と知ってのことだろう。深田は、昭和26年3月末に金沢に移り住んでおり、小松は毎月ように会っては、酒をのみ文学について語り合い、深田宅での句会もあったようである。

昭和27年6月、井上靖文藝春秋社の講演会で金沢へ訪れているが、その時、深田久弥北国新聞社の加藤勝代、小松伸六らと市内の料亭で会っている。井上靖は、「深田久弥氏に初めてお目にかかったのは、昭和二十六、七年の頃、金沢に於いてであった。小松伸六氏がまだ金沢大学に居られ、筑摩書房の加藤勝代氏が北国新聞の記者をされていた頃である。(中略)とにかく金沢の料亭で、小松、加藤両氏らと一緒に深田さんにお目にかかったのである」(「深田久弥氏と私」)と、深田との初対面のことを書き残している。

小松伸六は昭和28年4月から高崎市立大学に移り、30年4月から立教大学講師として勤めている。昭和30年6月、深田久弥『親友』(角川文庫)に「解説」を書く。小松が文庫の解説を書いたのは初めてであった。そこに「深田久彌氏の小説はどれも裏側まで澄んでゐて清々しいしいのである」と書いている。翌昭和31年4月には、深田久弥『贋修道院 他二篇』(角川文庫)の「解説」(未見)を書いている。

そして、昭和31年11月刊『赤門文学』第6号に、小松の「同人紹介」(筆名・小森六郎)があり、こんな一文がある。福井の「東尋坊へは、金沢時代一度来たことがあった。若い文学少女と二人だった」と、その少女と東尋坊に行きそこで語り合ったことを書いている。

 

「そのことを深田(久弥)さんが、ユーモラスに「小説新潮」か何かに書いた。私はそのとき初めて小説の主人公になった。英語の先生が教えてる子になんとなく告白し、なんとなくことわれるといつたものだつた。そうして、その号の「小説新潮」は金沢でうりきれたという。私の愛する金沢の町はそんなにせまいところだった。」

 

小松をモデルにした小説があるというが、どのような作品であったかわからない。

深田久弥は、昭和31年8月、一家をあげて上京している。深田の上京後も親交があったらしく、昭和34年夏、深田久弥が釧路の小松の実家に滞在している。その後斜里岳や阿寒の山を登り、「斜里岳」(『世界の旅・日本の旅』、昭和35年2月)を書く。

 

「釧路は活気のある町だった。(中略)ここは、私の友人で、独乙文学者であり文芸評論家である小松伸六君の生地、彼のお祖父さんは北海道開拓時代の成功者の一人で、今も目抜きの通りに盛大な店が営まれている。小松君からの連絡で、私たちはその御一族からあたたかく迎えられ、釧路の一日は町見物に費やされた。啄木の歌碑がある丘に立つと、港がすぐ眼下に拡がり、北方遥かに阿寒の山々が見えると教えられたが、惜しくもそれは夏雲に隠されていた。」

 

深田久弥の名著『日本百名山』に、「斜里岳」「阿寒岳」が収録されているが、その旅の所産であった。深田は、昭和46年3月21日 - 登山中の茅ヶ岳にて脳卒中で急逝、昭和46年『讀賣新聞』三月二十三日夕刊に、深田久弥への追悼文「深田さんのことー澄み切った人だった」を寄せる。そこに「「深田さんは東京ぎらいであった」と、深田との出会いから「私は深田さんによって、そのときはじめて小説家というものを知った」と回想している。そして、『北國新聞』三月二十八日にも、深田久弥追悼文「深田さんをしのぶ」を寄せたという(未見)。

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深田への追悼文、『北国文化』の座談会、深田の「斜里岳」、解説を寄せた深田の『親友』(角川文庫)など

 

小松伸六ノート⑨ 松本清張と小松伸六

 松本清張と小松伸六 

 

小松伸六が、昭和28年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した松本清張(まつもと せいちょう、1909~1992年)の作品解説をはじめて書いたのは、昭和34年5月刊の『松本清張選集/時代小説・啾々吟(しゅうしゅうぎん)』(東都書房)で、そこに「松本清張氏の時代小説(作品解説)」を寄せている。小松43歳の時である。「松本清張氏はいわゆる時代小説とものの一つの良心だ、と私はかねがね考えていた」と、それまでの「時代小説」とは違う、むしろ「純文学がわの作品なのである」と断言する。清張は、芥川賞受以降は歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆していたが、その時代小説(歴史小説)をまとめたものが、『松本清張選集/時代小説・啾々吟』であった。この年清張は49歳、『点と線』『眼の壁』を発表し、これらの作品で社会派推理小説ブームを起こしていた時期にあたる。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。

昭和44年9月には、『日本文学全集40 有吉佐和子松本清張水上勉北杜夫瀬戸内晴美司馬遼太郎』(新潮社)が刊行され、そこに清張の「ある「小倉日記」伝」「張込み」が収録され、小松は「解説」(未見)を寄せている。

そして、昭和46年月には『松本清張全集3 ゼロの焦点・Dの複合』(全38巻、文藝春秋)に「解説」を寄せている。そこでは、「松本作品の絶対的魅力は、色彩語でいえば〈黒〉の魅力である」と書き出し「黒の画集」「黒地の絵」「黒の図説」「黒の福音」に触れている。そして、舞台となった能登の海に「八年ほど金沢で教師をしていたので、能登も鶴来も知っている」と、五年前に能登の「ゼロの焦点」文学碑と見たことなどの回想を織り込んでいる。

なお、小松伸六は松本清張の多くの文庫本に「解説」書いているが、確認できたものは次の9冊である。

松本清張『無宿人別帳』(1960年、角川文庫)

松本清張佐渡流人行』(1963年、角川文庫)

松本清張『黒い福音』(1966年、角川文庫)

松本清張わるいやつら』(下巻、1966年、新潮文庫

松本清張『歪んだ複写』(1966年、新潮文庫

松本清張砂の器』(下巻、1973年、新潮文庫

松本清張『内海の輪』 (1974年、角川文庫)

松本清張『聞かなかった場所』(1975年、角川文庫)

松本清張『混声の森』(下巻、1978年、角川文庫)

これらの文庫は、いくつがロングセラーになり、映画、テレビドラマなるたびに再版され。いまも小松の解説が収録されて容易に読むことが出来る。手許にある新潮文庫砂の器』は88版である。『内海の輪』の解説では、「私事になるが、「内海の輪」の助教授殺人事件はひとことではではなかった。実は昨年、昭和四十六年(1973)年、もと私の同僚であった大庭助教授が、大学院の女子学生を殺し、九月伊豆の海で一家心中してしまった事件を経験したからである」と、清張の「内海の輪」と自分の体験を重ねている。

そして小松伸六晩年の平成4年、『文藝春秋松本清張の世界』(10月臨時増刊号)の「短篇小説傑作選」に清張の5作が収録され、そこに「作品解説」を寄せている。そのなかで、清張が19歳の時、「アカの嫌疑で小倉警察に留置された」ことに触れ、「私事になるが」と、東京帝国大学時代を清張と同じく警察署に留置された昭和13年ごろのことを回想している。

 

「やがて上京して東大に入り同人雑誌をつくるうち、東大前の喫茶店に集まり、ビールを飲み誰かが革命歌をうたったらしい。そのとき警察や刑事が入ってきて、私たち五人は大学のそばにある本郷本富士警察署にひっぱられ、何もしらべず三泊させられた。それが外にいる友人に知らされ、そのひとりが、のちの評論家になる平田次三郎君(故人)に事情をはなし、平田君の父が内務官僚で、そのつてで、わたしたちはすぐ留置場ぁた出してまらえたのだった。(中略)私はその頃、姉が経営する本郷駒込千駄木の姉の下宿屋にいたのだが、ときどき警官がやってきた。(中略)中曽根元首相も東大法学部の学生としてここに下宿していた。」(「作品解説」)

 

小松伸六がこの一文を書いたのは77歳の時である。松本清張の青春に自分の青春時代の姿を重ねていたに違いない。なお『この文藝春秋松本清張の世界』は、平成15年3月に文春文庫『松本清張の世界』として刊行され、小松の「作品解説」が再録されている。

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