小松伸六ノート⑬ 新田次郎と小松伸六

新田次郎と小松伸六

 

「昭和三十年代の日本の文壇に三つの事件があった。一つは松本清張を頂点とする推理小説の流行、一つは城山三郎を先覚者とする経済小説の出現、そして一つは新田次郎を、そのフロンティアズ・マン(開拓者)とする山岳小説の登場である」(新田次郎『先導者・赤い雪崩』昭和52年、新潮文庫)と、小松伸六が「解説」に書いているが、その3人の作品について、小松は多くの解説などを残している。既に松本清張について触れたが、今回は昭和31年に『強力伝』で第33回直木賞を受賞した、新田次郎(1912~1980)と小松伸六の関係について触れてみたい。

小松が、新田次郎に直接会ったのは、昭和35年10月号の『山と高原』「第1回・山岳文学賞」を串田孫一新田次郎らと選考委員を務めた時であったと思われる。その誌に、お互いに選評を寄せていたに違いない(未見。この文学賞は1回のみで終ったようである)。その時小松は45歳、新田は48歳であった。そして小松は、昭和39年5月刊の『新日本文学全集26 南條範夫新田次郎集』(集英社)「月報28」に「千手観音的次郎氏」を寄せ、次のように書く。

 

「新田さんは若いころ、六年間も富士山測候所に従事して本物の山岳人だから、ただの登山家と違う「勁(つよ)さ」をもっている人なのである。つまり「山に溺れる」ような甘い山の小説家でなく、「山に溺れない」山岳小説家なのである。」

 

小松は、昭和37年7月、新田次郎の文庫として『縦走路』にはじめて「解説」を書く。

新田次郎『縦走路』(1962年、新潮文庫

昭和33年に発表されたこの作品の「解説」を書くにあたって、「こんど読みかえしてみて、やはり楽しかった。鮮度が落ちていないのである」と書く。

新田次郎『強力伝・孤島』(1965年、新潮文庫

昭和31年に第33回直木賞した「強力伝」など6作品を収録した短篇集で、「いずれも山岳小説に新風をひらいた作者の初期の代表作である」と書く。

新田次郎『先導者・赤い雪崩』(1977年、新潮文庫

冒頭に、小松の「解説」から一部を引用したが、「ここに収められている『先導者』ほか七編の作品は、いずれも山を背景に自然の掟と人間の対立、あるいは人間と人間との葛藤を」描いたものだという。

新田次郎昭和新山』(1977年、文春文庫)

新田次郎は〈白の作家〉といいかえてもいい。(中略)新田次郎の魅力は、やはりその〈白〉にあるのではないかと、私は思う」と、随筆集『白い花が好きだ』についても触れている。

新田次郎『ある町の高い煙突』(1978年、文春文庫)

「大正のはじめ、世界一、高い煙突をたてることにより、銅山の精錬所から出る煙害をなくそうとして立ち上がった青年たちの誠実な足跡を描いた長編小説である」(解説)。2019年6月、新田次郎の記念すべき映画化10本目となって封切された。この年文春文庫の新装版が映画化に合わせて刊行され、小松の「解説」が再収録されている。

新田次郎『怒濤の中に』(1979年、文春文庫)

〈海〉に関した6つの作品が収録されている。解説のなかで、小松の甥である小松錬平(「テレビ朝日」のニュースキャスターを務めた)と新田次郎が面識があり、小松錬平が新田に講演を頼んだが断られたとのエピソードを書いている。

新田次郎『氷原・非情のブリザード』(1979年、新潮文庫

小松の解説は、昭和55年2月15日に新田次郎が亡くなり、読売新聞からの電話からはじまる。「私は一瞬絶句した。頑健そのものといっていい、山男の新田さんに〈死〉が襲撃するとは信じられなかった。私は悲報で混乱しながら何かをしゃべった」とある。2月25日の青山斎場の告別式では、「白菊でうめられた富士山の冬景色の祭壇の上に、微笑をたたえた新田さんの遺影があった」と書き残している。

新田次郎『雪の炎』(1980年、文春文庫)

「この作品は、何故か新田次郎全集二十二巻(新潮社版)に入っていないエンターテインメントに徹した作品として除外したのであろうか」と言い、「私のとって新田作品のなかでこのロマンは最もよく出来た長篇小説の一つ」と書く。

新田次郎の文庫に解説を寄せたのは、上記の8冊と思われるが、多くがロングセラーになっており、いまでも刊行が続けられている。そして、『昭和新山』(文春文庫)にまつわる余談をひとつ。ここに収められた「昭和新山」は、『文藝春秋』昭和44年11月号に掲載されたものだが、この小説誕生のエピソードがエッセイ「釧路の丹頂鶴」(『北の話』昭和48年9月・56号、あとに『続・白い花が好きだ』昭和53年、光文社に収録)にある。それによれば、昭和35年の夏、妻で作家である藤原ていとの結婚30年を記念の北海道旅行に出かける。札幌から網走をめぐり釧路へ、「釧路の大湿原に棲息している丹頂鶴を見に行こうではないか」と2人は、タクシーで釧路湿原地帯に探しに出かけるが見ることが出来ず、それが原因でとうとう妻と喧嘩になる。釧路に一泊する予定だったが札幌へ、妻はさっさと荷物をまとめて東京に帰ってしまう。新田次郎は翌日、1週間ばかり洞爺湖に滞在する。「この間昭和新山にも登った。私が小説『昭和新山』を書いたのは東京に帰ってからのことである」と書いている。

ちょっと話がそれてしまったが、昭和55年2月15日、新田次郎が69歳で死去する。小松伸六は、『讀賣新聞』夕刊にコメント、2月24日の『公明新聞』に「努力と誠実の生涯 新田次郎氏追悼」を寄せ、「質実剛健な作風」の作家であったと長文の追悼文を書く。そして、25日に青山斎場で行われた葬儀に出席し、新田次郎を偲んだ。

翌年小松は、昭和56年1月刊の『別冊新評 新田次郎の世界』に「新田次郎の魅力」を寄せる。ここでは、山岳小説のみならず歴史小説、時代小説、伝記小説、ミステリー小説など幅広い作品を残した、新田次郎文学の魅力を「小説道の武芸百般に通じた作家」として、余すことなく伝えてくれる。こんなエピソードもある。「十年も前になるだろうか。十二月になると毎年、B出版社はB社に関係が深い作家、評論家、漫画家らを熱海のKホテルに一泊どまりで招待してくれた」。B出版社とは「文藝春秋社」のことで、その時同部屋になったという。「新田さんの、とつとつとしゃべる話は面白かった。特に武田信玄を書きだした頃だったのだろうか。(中略)朝の四時ごろまで話しておられた」という。またその時、深田は「若い人たちといっしょにツイストをはじめた。うまいのである」といい、部屋に帰ってから「学生時代(現在の国立電気通信大学)、これでも社交ダンス会で優勝したこともあります」と語ったという。

昭和62年4月刊の『少年少女日本文学館』(講談社)第29巻「強力伝・高安犬物語」に「解説」を寄せる。この本には、新田次郎「強力伝」、戸川幸夫「高安犬物語」、田辺聖子「私の大阪八景」が収録され、それぞれに「解説」を寄せている。城山の作品「強力伝」について、主人公に命を救われた「石田」は、「新田次郎ドッペルゲンガー(分身)ともいえる」と書く。

そして、平成17年2月の小松伸六90歳の時、『新田次郎文学事典』(新人物往来社)が刊行され、「主要作品解説再録」として、『強力伝・孤島』(新潮文庫)の「解説」が再録された。

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新日本文学全集26 南條範夫新田次郎集』、『新田次郎文学事典』、『少年少女日本文学館』、『別冊新評 新田次郎の世界』、解説を寄せた文庫など。