小松伸六ノート⑨ 松本清張と小松伸六

 松本清張と小松伸六 

 

小松伸六が、昭和28年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した松本清張(まつもと せいちょう、1909~1992年)の作品解説をはじめて書いたのは、昭和34年5月刊の『松本清張選集/時代小説・啾々吟(しゅうしゅうぎん)』(東都書房)で、そこに「松本清張氏の時代小説(作品解説)」を寄せている。小松43歳の時である。「松本清張氏はいわゆる時代小説とものの一つの良心だ、と私はかねがね考えていた」と、それまでの「時代小説」とは違う、むしろ「純文学がわの作品なのである」と断言する。清張は、芥川賞受以降は歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆していたが、その時代小説(歴史小説)をまとめたものが、『松本清張選集/時代小説・啾々吟』であった。この年清張は49歳、『点と線』『眼の壁』を発表し、これらの作品で社会派推理小説ブームを起こしていた時期にあたる。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり戦後日本を代表する作家となる。

昭和44年9月には、『日本文学全集40 有吉佐和子松本清張水上勉北杜夫瀬戸内晴美司馬遼太郎』(新潮社)が刊行され、そこに清張の「ある「小倉日記」伝」「張込み」が収録され、小松は「解説」(未見)を寄せている。

そして、昭和46年月には『松本清張全集3 ゼロの焦点・Dの複合』(全38巻、文藝春秋)に「解説」を寄せている。そこでは、「松本作品の絶対的魅力は、色彩語でいえば〈黒〉の魅力である」と書き出し「黒の画集」「黒地の絵」「黒の図説」「黒の福音」に触れている。そして、舞台となった能登の海に「八年ほど金沢で教師をしていたので、能登も鶴来も知っている」と、五年前に能登の「ゼロの焦点」文学碑と見たことなどの回想を織り込んでいる。

なお、小松伸六は松本清張の多くの文庫本に「解説」書いているが、確認できたものは次の9冊である。

松本清張『無宿人別帳』(1960年、角川文庫)

松本清張佐渡流人行』(1963年、角川文庫)

松本清張『黒い福音』(1966年、角川文庫)

松本清張わるいやつら』(下巻、1966年、新潮文庫

松本清張『歪んだ複写』(1966年、新潮文庫

松本清張砂の器』(下巻、1973年、新潮文庫

松本清張『内海の輪』 (1974年、角川文庫)

松本清張『聞かなかった場所』(1975年、角川文庫)

松本清張『混声の森』(下巻、1978年、角川文庫)

これらの文庫は、いくつがロングセラーになり、映画、テレビドラマなるたびに再版され。いまも小松の解説が収録されて容易に読むことが出来る。手許にある新潮文庫砂の器』は88版である。『内海の輪』の解説では、「私事になるが、「内海の輪」の助教授殺人事件はひとことではではなかった。実は昨年、昭和四十六年(1973)年、もと私の同僚であった大庭助教授が、大学院の女子学生を殺し、九月伊豆の海で一家心中してしまった事件を経験したからである」と、清張の「内海の輪」と自分の体験を重ねている。

そして小松伸六晩年の平成4年、『文藝春秋松本清張の世界』(10月臨時増刊号)の「短篇小説傑作選」に清張の5作が収録され、そこに「作品解説」を寄せている。そのなかで、清張が19歳の時、「アカの嫌疑で小倉警察に留置された」ことに触れ、「私事になるが」と、東京帝国大学時代を清張と同じく警察署に留置された昭和13年ごろのことを回想している。

 

「やがて上京して東大に入り同人雑誌をつくるうち、東大前の喫茶店に集まり、ビールを飲み誰かが革命歌をうたったらしい。そのとき警察や刑事が入ってきて、私たち五人は大学のそばにある本郷本富士警察署にひっぱられ、何もしらべず三泊させられた。それが外にいる友人に知らされ、そのひとりが、のちの評論家になる平田次三郎君(故人)に事情をはなし、平田君の父が内務官僚で、そのつてで、わたしたちはすぐ留置場ぁた出してまらえたのだった。(中略)私はその頃、姉が経営する本郷駒込千駄木の姉の下宿屋にいたのだが、ときどき警官がやってきた。(中略)中曽根元首相も東大法学部の学生としてここに下宿していた。」(「作品解説」)

 

小松伸六がこの一文を書いたのは77歳の時である。松本清張の青春に自分の青春時代の姿を重ねていたに違いない。なお『この文藝春秋松本清張の世界』は、平成15年3月に文春文庫『松本清張の世界』として刊行され、小松の「作品解説」が再録されている。

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