小松伸六ノート㉖  山本有三と小松伸六

 

山本有三(やまもとゆうぞう 1887~1974)

山本有三といえば、幾度も映画化された『路傍の石』が思いだされる。

山本は、今の栃木県栃木市生れ。東京帝大独文科再学中に、豊島与志雄菊池寛芥川龍之介久米正雄らと第三次「新思潮」で戯曲家としてデビュー、大正末期から小説にも手を染め、女医を描いた『女の一生』、勤め人一家を描いた『真実一路』、逆境を生きる少年を書いた名作『路傍の石』などで国民的作家となった。昭和40年には、文化勲章受章を受賞している。

小松伸六が、作家山本有三について本格的に論じたのは、筑摩書房が出していた『現代文学大系』に「山本有三集」が編まれた時である。その仕事のいきさつについて、「山本さんに始めてお会いしたのは昭和三十八年の初夏のことであった。ある現代文学大系の山本有三集の解説を私が書くときになったときだ。山本さんが私に会ってみたいという希望で、私は編集者のK氏とともに湯河原の山本家を訪問した。私はいろんな作家の解説を書いてきたが、解説者に会いたいという作家の申出を受けたのは初めての経験であった」(「向日性の作家、山本有三」と書いている。続けて小松は、「私が山本さんと同じように東大ドイツ文学科出身なので、同じ学科の後輩に目をかけて下さるという気持ちがあったかも知れない」と言っている。山本有三は、大正4年東京帝国大学の独文科を卒業しているから、大先輩であり、山本は後輩の若い文芸評論家に直接会ってみたいと思ったのかもしれない。その時山本76歳、小松49歳の時である。

そして、翌年の昭和39年1月に『現代文学大系26 山本有三集』(筑摩書房)が刊行され、小松は「人と文学」として、23ページにわたる解説を寄せている。冒頭から「路傍の石」に触れ「この作品は山本氏の少年時代の生活体験の直述でもなければ、諸事実の記録でもない。その意味では、むしろ一個の独立したロマンとして読む方がいい」と言う。こんなエピソードも記している。

「私事にわたるが、私の家には仕事がら、さまざまな日本文学全集があるのだが、そのなかで、もっともよごれのはげしいのがきまって山本有三集なのである。私の娘たちがよみ、甥たちがよみ、学生たちも借りてゆくのである。」

そして、代表作「路傍の石」から、随筆、戯曲までの作品を論じ、「山本氏の文学は、読者の健康で素朴な要求である「文学によってなぐさめられ、生きる力」をあたえてくれる「感動の文学」である点で、百万人の読者を持つ、国民文学と言えるからだ」と断言する。

昭和47年10月刊の『日本文学全集27 山本有三集』(集英社)月報24に、「山本有三文学のたのしさ」を寄せる。小松は、「私は文学部に入ってきたのだから、小説ぐらい読みなさい、日本の現代小説にもおもしろいものが沢山あるのだからとすすめる。私はドイツ語教師だが、山本有三文学をすすめる」と書いている。

昭和49年1月、山本有三は87歳の生涯を終えた。没後、『山本有三全集』(新潮社)が編まれ、小松伸六は、昭和51年8月刊の『山本有三全集』(新潮社)第7巻の付録に、最初に山本有三を湯河原の家を訪ねたこと引用した、「向日性の作家 山本有三」を寄せるのである。初対面のあとのことだが、「その後、山本さんから帝国ホテルに福田清人さん荒正人さんと一緒に招待され御馳走になったこともある」「菊池寛賞の受賞式でも、選考委員だった山本さんが、身じろぎもせず、端然と座っていた姿をおもい出す。パーティになり、私が挨拶にゆくと、度の強いメガネごしに、気軽に話しかけて下さる」などと、山本有三を回顧するエピソードを綴っている。

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小松伸六ノート㉕ 女性作家と小松伸六 その2

幸田文(こうだあや 1904-1990

作家幸田文といえば、幸田露伴の次女として知られている。昭和22年の露伴の没後、父を追憶する文章を続けて発表、注目されるところとなり、昭和29年、『黒い裾』により読売文学賞を受賞する。昭和33年には、早くも『幸田文全集』全7巻が刊行された。

小松伸六は、昭和35年5月刊の『新選現代日本文学全集12 幸田文集』(筑摩書房)に「解説」を寄せている。この解説は未見だが、小松45歳の時の仕事で、文芸評論家として本格的に活動しはじめたころである。昭和37年6月刊の『サファイア版昭和文学全集15 円地文子幸田文』(角川書店)にも「解説」を寄せる。収録された作品は、伝記的な「おとうと」「流れる」の2作で、小松は、「日常生活のどんなささやかなことも、かりそめにしないで、小説の細部にたたきこんでいくすばらしさ。つまりこの作品をつらぬく幸田文の独自なエスティティクは、昭和文学の一つの地位を要求していることは、まちがいないようである」と書く。

昭和43年1月刊の『現代文学大系39 網野菊壷井栄幸田文集』(筑摩書房)には、「人と文学」を寄せる。収録された作品は「流れる」「勲章」「黒い裾」の3作品。「幸田式にいえば「背骨の押ったった」ような気象の高さが、幸田さんの文学をつらぬいているようだ。美論的にいえば、それは驕慢な美意識であり、立法的なエスティティク(美学)である」と、6ページにわたって幸田作品を論じている。

なお小松伸六は、昭和59年幸田文『闘』(新潮文庫)に解説を寄せている。この『闘』は、東京近郊の結核病棟が舞台で、結核という病のなかで生きる人たち描いた作品で、女流文学賞を受賞している。小松は、自らの結核での療養生活をこう記している。

「――ここで私事をはさむ。私も高校時代(旧制)、肺侵潤で二年間休学、静岡市の用宗海岸で療養生活をおくった。昭和十年前後である。さらに昭和十八年旧満州の遜呉に応召、結核再発。大連、奉天、広島の各陸軍病院を転々とした病歴がある。それだけにこの作品には身につつまされるところが多かったことを正直に告白しておきたい」と。

 

有吉佐和子(ありよしさわこ 1931-1984

昭和31年、「地唄」で芥川賞候補となり文壇に登場した有吉佐和子。代表作に、紀州を舞台にした年代記『紀ノ川』『有田川』『日高川』の三部作、『華岡青洲の妻』(女流文学賞)、老年問題の先鞭をつけた『恍惚の人』、公害問題を取り上げて世評を博した『複合汚染』など。理知的で多彩な小説世界を開花させた作家である。小松伸六は、早くから有吉の文学に注目した文芸評論家のひとりでもあり、昭和43年5月刊の『マイライフ』に「小説のなかのヒロイン~”紀ノ川”の女四代記」を寄せている(未見)。また有吉は、しばしば国内外へ取材旅行に出かけ、その後、アメリカの大学に9か月間留学、あとに、ハワイ大学で半年間講義し、作品の取材は、中国にも及ぶ。

小松が、有吉の文庫本に書いた「解説」は、昭和40年3月刊の『香華』(新潮文庫)1冊しか確認できないが、「エリオット風に「伝統を否定することにおいて伝統を継承する伝統主義に立つ」女流作家」と断定する。

昭和43年4月刊の『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に、有吉の「江口の里」「水と宝石」「三婆」3作品が収録され、 小松は「鑑賞」を寄せている(未見)。また、この年5月刊の『マイライフ』に「小説のなかのヒロイン~”紀ノ川”の女四代記」(未見)を寄せている。そして、昭和46年7月刊の『日本文学全集45 有吉佐和子瀬戸内晴美』(新潮社)に有吉の「華岡青洲の妻」など6作品が収録され、小松は6ページに及ぶ詳細な「解説」を寄せる。

そして小松は、昭和51年6月刊の『筑摩現代文学大系63 芝木好子・有吉佐和子集』(筑摩書房)月報27に「型の美しさー有吉文学の一面」を寄せる。日本伝統の歌舞伎、生け花などの「型」に触れ、「小説にも「型」を持たしてもいいのではないか。過去を結晶せしめているのが「型」なのだ。その型を継承している物語作家にも有吉佐和子がいる」と書く。有吉文学を語り続ける小松は、昭和57年7月30日から5回に渡って『東京新聞』の「現代作家の世界」のなかで有吉文学について書き、最後の8月27日の「現代作家の世界41の有吉佐和子⑤」のなかで、「日本の作家たちが国外に亡命しなければならならぬ事態がおきても、有吉女史は亡命生活に耐えられる唯一の女流作家ではないのか。古風なようで国際性を持つ、つよい演劇文化人が有吉さんだと、私は思う」と書いている。

しかし、昭和59年8月、有吉は東京都杉並区内の自宅で、53歳の若さで死去した。小松にとって、もっと長く活躍してほしかった作家のひとりでもあったろう。

 

壷井栄(つぼいさかえ 1899~1967

作家壷井栄といえば、戦後反戦文学の名作として、後に幾度も映画化された「二十四の瞳」が思い浮かぶ。小松伸六は、壷井の作品の出会ったのは、戦前のことである。

「壷井さんが「大根の葉」を発表したのは、昭和十三年九月号の「文芸」誌上で、渋川驍、和田伝鶴田知也など三人の作品とともにのっている。私は「大根の葉」に感心し、その号はとってあるのだ。それ以後壷井ファンになって、今日にいたっているが、こうした読者はほかにもいるのではないかとおもう。私はそのころ、本郷の学生で、美学美術史科に席をおいていた。学校へはほとんど出ることもなく、むずかしい文学書を乱読していた」(「「えくぼのある文学」のきびしさ」)

小松が最初に壷井栄の文学を論じたのは、昭和37年の『国文学 解釈と鑑賞』9月号に寄せた「壷井栄」と思われる。「私は、そうした壷井文学を「室内の文学」と書いたり、「母たちの国の文学(ゲーテの「ファウスト」のなかにある言葉)と書いた覚えがある」と「「えくぼのある文学」のきびしさ」に書いているが、」この時のことと思われる。

壷井栄は、昭和42年6月に67歳で亡くなっているが、小松は、翌年の昭和43年1月刊の『現代文学大系39 網野菊壷井栄幸田文集』(筑摩書房)に「人と文学」を寄せ、「なくなられた現在、ここでは私なりの壷井さんへの鎮魂歌を書いてみたいと思う」と、「壷井さんの文学には、解説も批評もいらない。子供から大人まで、男も女も、働く人もインテリも、さらに一般の読者も精読者(たとえば批評家)も、誰でも、手ぶらで、すーと入ってゆける世界が、壷井さんの文学なのである」と書いている。そして、同じ年の昭和43年12月刊の『壺井榮全集』(筑摩書房)第8巻の月報に、「「えくぼのある文学」のきびしさ」を寄せたのである。そして、昭和48年5月刊の『現代日本文学大系59 前田河廣一郎・徳永直・伊藤永之介・壷井榮集』(筑摩書房)に「壷井栄の文学」を寄せる。ただこの論考の最後に「昭和三十七年九月」とあり、昭和37年9月の『国文学 解釈と鑑賞』に寄せた「壷井栄」であろう。

小松伸六が、壷井栄の文庫に解説を書いたのは新潮文庫版『二十四の瞳』である。そこに「壺井栄 人と作品」、「『二十四の瞳』について」を寄せている。手許のある新潮文庫は、平成19年6月刊91刷である。ただ、新潮文庫の初版は、昭和32年9月刊だか、その時の解説は「窪川鶴次郎」である。昭和40年9月には、22刷改版が出ているが、小松が「解説」を寄せたか、確認できていない。

ただ、新潮文庫の小松の解説「壺井栄 人と作品」が書かれたのは、壷井栄の死に触れているから、内容からして昭和42年以降と思われる。昭和54年9月刊の48刷には、「壺井栄 人と作品」「『二十四の瞳』について」の末尾は(昭和四十八年九月)とあるが、いつから新潮文庫に小松の解説が入ったのか、はっきりしない。『二十四の瞳』は映画化やテレビドラマ化されるたびに版を重ね、ロングセラーになっているから、これからも小松の解説とともに読み続けられていくに違いない。

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小松伸六ノート㉔ 女性作家と小松伸六 その1

平林たい子円地文子

今回取り上げる、平林たい子円地文子の2人は同じ年の生れ、そして親友でもある。よって、1冊の文学全集には2人の名前が並ぶことも多く、小松伸六はそれらに解説を寄せており、最初に、この2人について触れたい。

 

平林たい子(ひらばやし たいこ、1905~1972

平林たい子は、文学に目覚めたころアナーキスト芸術家たちと交わり、作家活動をはじめる。のち、『文芸戦線』に発表したプロレタリア文学の一方の代表的作家となるが、第二次世界大戦後は急速に反共的傾斜を示した、稀有な作家である。

小松伸六が平林たい子との初体面は昭和35年の暮れであったらしい。翌年36年の『婦人生活』1月号に、小松伸六、石坂文子・吉行淳之介平林たい子との座談会「妻の恋愛は許されるか」が載っている。平林56歳、小松46歳ときである。小松は、あとにこの座談会に触れ、「私は一度、ある婦人雑誌の座談会で平林さんと一緒になる機会があったが、明るく、気さくで、正直な感じのする方で、作品からうける感じとはかなりちがっていた」と、昭和40年9月刊の『現代文学大系40 平林たい子・圓地文子集』(筑摩書房)の「人と文学」の最後に書いている。この「人と文学」は、平林の生い立ちから、大正15年頃からはじまった文学活動、そして昭和39年までに発表した作品を詳細に論じ、16ページに及ぶ解説である。また、昭和43年四月刊『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に「鑑賞」を寄せているが、これは未見である。

そして昭和47年、平林は68歳の生涯を閉じたが、小松は昭和54年2月刊の『日本女性の歴史』14巻に「平林たい子」を寄せ、サブタイトルに「体当たりで生きた炎の女」と書き、波乱に満ちた平林の一生を辿っている。

 

 

円地文子(えんち ふみこ、1905~1986

円地文子は、明治38年10月2日に上田万年(かずとし)の次女として生れ、昭和28年「ひもじい月日」で才能を開花させ、女の業,怨念を官能美の中に描いた作家で、戦後の女流文壇の第一人者として高く評価され、文化勲章も受賞している。

小松は、円地との初対面の印象を、「私は一度、出来たばかりで当時評判になっていたミカドというレストランに婦人雑誌の仕事で円地さんと同伴したことがある。静かな、小柄な和服姿、この女性から、あんなに激しい、性を中心とした小説が生まれるのだろうかと、ちょっと、とまどったものである。私がドイツ文学を専攻したというと、円地さんはドイツ演劇を話題にした」(『焔の盗人』解説、集英社文庫)と、書いている。またその時、三島由紀夫も来ていて円地と立ち話をしていたという。いつのことかはっきりしないが、昭和37年、東京赤坂に出来たレストランシアター「ミカド」のことと思われる。その時、円地は57歳、小松47歳であった。

小松は、昭和37年6月刊『サファイア版昭和文学全集15 円地文子幸田文』(角川書店)に収録された、「愛情の系譜」「女坂」の解説を詳しく書いている。そして、昭和40年9月刊の『現代文学大系40 平林たい子・圓地文子集』(筑摩書房)に「人と文学」を寄せるが、親友平林たい子との関係からはじまる解説を、16ページ以上に渡って書いている。収録された9作品の詳しい解説と、円地の生い立ちを語っている。また、昭和43年4月刊の『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に「鑑賞」を寄せているが未見である。

なお、円地文子の文庫の「解説」は、10冊を数える。

円地文子『私も燃えている』(昭和40年、角川文庫)

円地文子『女の繭』(昭和42年、角川文庫)

円地文子『鹿島綺譚』(昭和43年、角川文庫)

円地文子『雪燃え』(昭和55年、集英社文庫

円地文子『人形姉妹』(昭和57年、集英社文庫

円地文子『都の女』(昭和58年、集英社文庫

円地文子『離情』(昭和59年、集英社文庫

円地文子『男の銘柄』(昭和63年、集英社文庫

円地文子『私も燃えている』(昭和63年、集英社文庫

円地文子『焔の盗人』(昭和63年、集英社文庫

「昭和二十九年の晩秋のことである」とはじまる、伝統的な京都の茶道世界での男と女の出会いを描いた集英社文庫『雪燃え』では、やはり伝統的な街であった金沢の同時代沢を小松は回想している。また、アメリカに4年間留学していた女性を描いた集英社文庫『離情』では、小松自身の二度のアメリカ滞在に触れ、その時出会った留学生の印象のことを書いている。なお、集英社文庫版『私も燃えている』は、昭和40年の角川文庫の再録である。

円地文子は昭和61年11月死去、小松は、翌年の昭和62年『すばる』1月号に、追悼文「円地文子の一面」を書いている。「円地文子の絶対的魅力は、豊かな物語性にあるのだ」と断言する。小松は、昭和47年3月4日の『公明新聞』に「円地文子の文学」を書くなど、機会あるごとに円地作品の書評を、新聞、雑誌に書き続けていた。

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小松伸六ノート㉓  大衆文学作家と小松伸六 その3

子母沢寛(しもざわ かん、1892~1968

 

子母澤寛は、小松伸六と同じ北海道生まれの作家で、厚田郡厚田村(現・石狩市)の出身。小松が残した『北海道新聞』の切り抜きに(掲載日不明)、「透徹した史眼「勝海舟」―子母澤寛氏の作品」がある。「私は東京生まれの人かと思っていた、氏が私と同郷の北海道は石狩の国・厚田の生れときいて、びっくりもし、また私の父と同じように、内地(本州)を逃げ出した『流れもの』の系譜に属するひとと知って一層親しみを感じていた」と書いている。子母澤とは面識もあったらしく、「子母澤さんから、お手紙をいただいたことも、しばしばある」とも書いている。この記事は、『子母澤寛全集』第10巻が出た、昭和37年ごろと思われる。

また小松は、昭和36年7月刊『傑作小説 特別号/子母澤寛小説読本』に「子母澤寛小論」を寄せ、子母澤寛の近作について論じている。最後に、「作者の目は、現在、江戸末期という変革期に向けられている」「転向しない人たちへの賛歌と、今はなき江戸風物祖誌への挽歌いというのが、子母澤氏」の心の底に流れる調音のようである」と書いている。この時子母澤は69歳、小松46歳の時であった。

子母澤寛の生前、勝小吉親子の物語である『おとこ鷹』(下巻、1964、昭和39年、新潮文庫)に「解説」を書き、「この作品は、一種のピカレスク・ロマン(悪漢小説)として楽しく読めるのではないかと思います」と書いている。

子母澤は、昭和43年に76歳で亡くなった。その直後に出た、『新選組始末記』(昭和44年、角川文庫)に小松は「解説」を書いている昭和3年にはじめて出した著書の文庫版で、古老たちの話を聞き集めたもの。小松は、「この作品は一等史料であり、とくに新選組を書く場合には、これを抜きにしては語れないことは、あらゆる作家が口をそろえて言っていることなのだ」と書く。この文庫は、『新選組始末記 決定版』(昭和57年、時代小説文庫・富士見書房)としても刊行されているが、角川版の文庫「解説」を、わずかに変えただけである。

昭和48年9月刊『子母澤寛全集』(全25巻、講談社)の月報9に「北方亡命者の抒情」を寄せているが、未見である。

  

船山馨(ふなやま かおる、1914~1981

 

船山馨(大衆小説作家というには問題があるかも知れないが)もまた、小松伸六と同じ北海道生まれ。札幌の出身だが、昭和41年に小松と共に北海道新聞文学賞第1回の選者になっており、「一年に一度、私は北海道新聞文学賞の選考委員会で、船山さん、八木義徳さんに会うのだが、船山さんはハッタリのある作品をひどくきらう。小説に正確なデッサンを要求する。つまり文学に対して誠実なのである」(「解説・『見知らぬ橋』をめぐって」)と書くほどの、親しみを持っていた作家でもあった。昭和43年8月4日に「釧路開基百年記念文化講演会」が釧路公民館で開催され、小松伸六、原田康子とともに、船山馨も参加し「歴史と文学」と題して講演(翌年の『釧路春秋』第3号に収録)しているから、そのころ親しく語り合う間柄だったと思われる。

小松は、昭和50年9月刊『船山馨小説全集』第12巻「見知らぬ橋(下)」(河出書房新社)に、「解説・『見知らぬ橋』をめぐって」を寄せる。北海道新聞文学賞の選考委員会の話以外に、「背が高く、色が白く、ロマンスグレーである。ちょっと異邦人のようにもみえた」などと、その印象を書いている。なおこの解説は㈶北海道文学館編『北の抒情 船山馨』(北海道新聞社、1996年)に再録されている。

小松は、船山馨の文庫本の「解説」を数多く書いている。確認できたのは下記の5冊。

・船山馨『お登勢』(昭和45年、角川文庫)

・船山馨『石狩平野』(下巻、昭和46年、新潮文庫

・船山馨『幕末の暗殺者』(昭和46年、角川文庫)

・船山馨『続・お登勢』(昭和52年、角川文庫)

・船山馨『見知らぬ橋』(下巻、昭和54年、角川文庫)

お登勢』の「解説」のなかでは、「私事にわたることを許してもらえば私(小松)も、作者と同じ道産子。釧路生れで、北海道僻地のことは多少わかる。とくに明治初年代の北辺、おそらく絶望的な荒れ地であった静内が、どんな荒涼たるものであったかは、読者の想像を絶するものがあるのではないか」と、物語の舞台となった静内とその時代に触れる。なお、平成16年12月刊『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』(齋藤愼爾編、メタローグ)に、『お登勢』(角川文庫)の「解説」が収録されている。『石狩平野』の「解説」のなかでも、「私自身の好みからいえば、前半の明治篇のほうに愛着がある。それは、私が、作者と同じように北海道生まれで(通称道産子)、石狩の野は、私の北方の血にもつながる故郷であることからきているかもしれない」と書く。そして、『続・お登勢』の「解説」の最後に主人公たちの生き方に触れ、「明治の中期に広島県から北海道に渡ってきた私の父や母の苦労を考えないわけにはいかなかった」と書く。

船山馨が67歳で亡くなったのは昭和56年8月5日、春子夫人もまた疲労で同じ日に亡くなった。小松は8月7日の『北海道新聞』夕刊に追悼文「船山馨氏の人と文学」を寄せる。「眼鏡のうしろに澄んだ眼があった。やさしい眼差しであった」と書き、かつて文学を志した春子夫人の死にも触れている。

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小松伸六ノート㉒ 大衆文学作家と小松伸六 その2

大衆文学作家と小松伸六 その2 吉川英治川口松太郎

 

吉川英治(よしかわ えいじ 1892~1962

大衆文学に新境地を開くものとして圧倒的な読者を得、国民文学的な作家の一人とされた吉川英治。小松伸六は、昭和42年7月刊『吉川英治全集』(旧版、全56巻、講談社)第1巻の月報14に「『宮本武蔵』など」を書いている。

そこに、「吉川さんの上手な、というより聞く人の心を、すっかりとらえるようなテーブルスピーチを二度きいた」と書き出す。一度目は、和田芳恵さんが「一葉研究」で芸術院賞を受けたときというから、昭和31年3月のことである。二度目は、昭和35年1月に小松が司会を務めた、城山三郎『乗取り』の出版記念会の席で、「城山三郎氏をはげます会があったときに、吉川さんの話を一メートルもはなれないところで聞くことができた。たまたま、私が城山さんのパーティの司会をやっていたからだ」だと、書いている(平成4年9月、『吉川英治とわたし 復刻版吉川英治全集月報』(講談社)が刊行され、この一文が収録されている)。

昭和57年4月刊の『吉川英治全集13 新編忠臣蔵』(新版、全58巻、講談社)には、「解説・平衡感覚のみごとさ」を寄せる。吉川の「新編忠臣蔵」は昭和10年に雑誌連載されたものだが、多くの大衆作家たちの「忠臣蔵」を描いた作品と比較し、「赤穂事件は「侍の喧嘩」(小林秀雄の言葉)だが、庶民にもふれることで、いわゆる在来の「忠臣蔵」とは、一味ちがう深さをもっているように思われたし、今、読んでも少しも古くささを感じさせない点に感心した」と、「解説」を締めくくっている(平成2年刊『吉川英治時代小説文庫 補2 新編忠臣蔵(二)』(講談社)に再録された)。

翌昭和58年9月刊の『吉川英治全集9 燃える富士』(講談社)には、「解説・読者に夢を運ぶ」を寄せる。そこでは、吉川英治の作品に出会った中学時代を、「私事になるが、私の中学時代が大仏次郎の「てる日くもる日」「赤穂浪士」、吉川英治「剣難女難」「鳴門秘帖」の発表時とかさなり、小説って何と面白いものか、と徹夜で読んだ記憶がある。なつかしい」と書く。この全集に収められた「燃える富士」「修羅時鳥」などは、小松の中学時代の作品だが、当時これらの作品も読んでいたのだろう。大衆文学を語る、文芸評論家としての小松の一面が感じられる。

 

川口松太郎(かわぐち まつたろう、1899~1985

大衆文学の先駆者のひとりとして、すでに活躍していた川口松太郎が、昭和10年に第1回直木賞を受賞した。小松伸六は、昭和43年7月刊『川口松太郎全集』(全16巻、講談社)第12巻、昭和44年1月刊『川口松太郎全集』第1巻、2月刊『川口松太郎全集』第2巻に「解説」を書いている。未見だが、大衆作家川口松太郎の作品を、かなり読んでいたことがわかる。なお、昭和43年1月刊『川口松太郎全集』第10巻の月報2に、「人情を尽くす作家」を寄せ、「川口氏は、いろんな種類の小説を書く人だが、伝奇小説などでも「人情をつくす」ところに、私たちの心をとらえてはなさぬ、秘密があるのではないかと思う」と書いている。

小松は、昭和49年5月刊『昭和国民文学全集8 川口松太郎集』(筑摩書房)にも「解説」を寄せている。収録された作品は、第3回吉川英治文学賞を受賞した「しぐれ茶屋おりく」と、「古都憂愁」、代表作と言われる「鶴八鶴次郎」。小松は、その「解説」のなかで、川口の書く小説について「どの話も、自己の生命圏のなかで語っているので、真実のようにも思われる。心にくいほど、そのあたりを心得ているようだ。虚と実との鋭い平衡感覚をもつ人が川口松太郎である」と書いている。

川口松太郎の小説「新吾十番勝負」は、昭和32年から昭和34年にかけて朝日新聞に連載され、たびたび映画化・テレビドラマ化されている。その川口の代表作の一つと言われる『新吾十番勝負』が、昭和40年5月に新潮文庫として、上中下巻の全3冊として刊行された。この上巻に小松は「解説」を寄せている。

ここでは、「たしかに川口氏は天成のストーリーテラーであり、現代のたくみなる「語り部」だと思う。読みだしたら、やめられない面白さがある」と書き、最後に「ともあれ、この作品はエンターテインメントとしては文句なしの一級品である」と締めくくる。小松は、『川口松太郎全集』の3冊に「解説」を書き、それ以後も大衆作家川口松太郎の作品を、かなり読んでいた愛読者の一人であったことがわかる。

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小松伸六ノート㉑ 大衆文学作家と小松伸六 その1

大衆文学作家と小松伸六 その1

 

大衆作家の大御所である大佛次郎についてはすでに触れたが、小松伸六が文学全集や文庫に残した「解説」を中心に、大衆文学作家との関係に触れていきたい。

小松が大衆作家の文学全集の「解説」をはじめて手掛けたのは、昭和28年7月刊の『昭和文學全集17 大佛次郎集』(角川書店)で、純文学作家の文学全集や文庫本の「解説」より早い。子供のころから大佛次郎の「鞍馬天狗」に夢中になっていた小松にとって、文芸評論家としての出発は、大衆文学を対象としていたと言ってもいいのかもしれない。昭和33年には、『現代国民文学全集32巻 中里介山』、『現代国民文学全集28巻 直木三十五集』(角川書店)に「解説」を寄せている。小松は、大衆文学、純文学にこだわらず、多くの作家の作品を読んでいた文芸評論家でもあった。

 

中里介山(1885~1944

代表作「大菩薩峠」がある中里介山 幕末が舞台で、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描いた作品の連載は約30年にも及び、未完であったにもかかわらず、いまも多くの読者が生まれている。小松伸六は、昭和31年4月刊の『文藝』臨時増刊号「中里介山大菩薩峠読本」に「机竜之助の系譜」を寄せている。「机竜之介」はもちろん「大菩薩峠」の主人公だが、この批評は未見。小松は、2年後の昭和33年9月に、『現代国民文学全集32巻 中里介山』(角川書店)に「解説」を寄せ、「「大菩薩峠」の面白さは、なんといっても主人公机龍之助の絶対的魅力があるようだ」と書き出す。

「龍之助がでれば、かならず人を斬り、龍之助なるが故に、必ず勝つ。しかも私たちは

こうした龍之助の残忍な、原始的な心象ともいえる白刃の魅力を当然のこととして少しも怪しまない。とすれば、私たちの血管のなかではすでに龍之助の巨人伝説の主人公であり、「大菩薩峠」はすでに神話的文学となっているはずだ」

と言う。そして文藝評価となった小松伸六は、自らを「拾い屋」と自称していたが、小松自身、「中里介山は「大菩薩峠」の中で、わが国大手出版社の社長をさして「紙屑拾いののろまの〇〇」と書いており「拾い屋」の称号のヒントはここから得たといっている。」(『人脈北海道 作家・批評家編』昭和49年、北海道新聞社)とあるから、「大菩薩峠」の大の愛読者であったことは確かである。

余談だが、この『現代国民文学全集32巻 中里介山』に収録された「大菩薩峠」には、「甲源一刀流の巻」など8巻(まき)が収録され、残りは「「大菩薩峠」以下の梗概」として書かれている。この「梗概」を書いたのは、新進作家の富島健夫であったという。『「ジュニア」と「官能」の巨匠 富島健夫伝』(河出書房新社)を書かれた荒川佳洋氏は、「9月角川書店版『現代国民文学全集32巻 中里介山』の「大菩薩峠」の梗概2段組18頁を執筆。生活の資にと山本容朗の好意による仕事だったが、梗概は見事な出来栄えだったと山本は記している」(『富島健夫書誌・増補版』2019年、富島健夫書誌刊行会)と書き残している。小松伸六は、あとに富島健夫の『おさな妻』(昭和54年、集英社コバルト文庫)の「解説」を書いている。

 

白井喬二(1889~1980

大衆文学の巨峰と言われ白井喬二の作品も、小松伸六は数多く読んでいる。小松は、昭和39年6月刊の共同通信社文化部編『昭和の名著・教養のための百選』(弘文堂)に「白井喬二『富士に立つ影』」を書いている。この著の「まえがき」に、「私たちは、新聞の読書欄は、単に新刊書ばかりではなく、かつて出版され、そしていまなお名著として伝えられている図書の案内も載せる必要があるのではないかという意図から、1962年2月から1964年1月まで、約2ヶ年間にわたり毎週一回、「この本の周辺」と題する連載企画を、加盟新聞社にたいして配信してきた」とある。そこから、共同通信社が配信した地方新聞の読書欄に寄稿していたことがわかる。なおこの著には、小松が寄せた、「井伏鱒二「多甚古村」」もある。執筆者は、作家の大江健三郎、新田潤、評論家の荒正人奥野健男など実に多彩な人物が寄稿している。

昭和44年4月から『白井喬二全集』(学芸書林)全22巻が刊行され、その第1巻「富士に立つ影1」に、小松伸六は「解説」を寄せているが、未見である。それにしても、当時大衆文学作家も語れる新進文芸評論家として、「解説」等を求められていたのである。

 

 

直木三十五(1891-1934)

年に二回、マスコミを沸かす文学賞である芥川賞直木賞。その大衆小説作品に与えられる直木賞の正式な名は、「直木三十五賞」である。今や直木賞は知っていても、作家直木三十五を知らない人も多い。その作家について、小松伸六は、昭和33年7月刊の『現代国民文学全集28巻 直木三十五集』(角川書店)に「解説」を書いている。この全集には、直木三十五の代表作「南国太平記」が収録されているが、小松はこう書く。

「―この作品は、大衆文を知識階級の嗜好までにひきあげた、劃期的な時代小説として、圧倒的な世評を得た作品でもある。/しかも今日よみかえして、少しも色あせぬ作品であるところか、近頃の凡百の時代小説より、はるかに面白さが鮮烈であるのには一驚した」

昭和30年代の小松の発言とはいえ、直木の代表作「南国太平記」を賛美している。

いまや、直木三十五の名は忘れられ「直木賞」の名のみが残るが、小松は長きに渡って同人誌『赤門文学』を主宰し、直木賞候補にもなる作家を生み出してきた。そして、多くの直木賞作家の全集や、文庫本の「解説」を書き残している。

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『現代国民文学全集32巻 中里介山』、『現代国民文学全集28巻 直木三十五集』(角川書店)、昭和の名著・教養のための百選』(弘文堂)、富島健夫『おさな妻』(昭和54年、集英社コバルト文庫

 

 

 

小松伸六ノート⑳ 石坂洋次郎と小松伸六

石坂洋次郎と小松伸六

 

昭和30年から40年代、『青い山脈』をはじめとする青春小説が大ベストセラーになり、映画化され、多くの若い人たちに読まれ続けた石坂洋次郎(1900~1986)。石坂は、昭和8年三田文学』に「若い人」の連載をはじめて評判になり、11年「第1回三田文学賞」を受賞し、作家的地位を確立する。石坂文学の初期の作品について、「いずれも私小説的な発想の上につくられており、この作家の特色である自慰的要素のこい戯画化がこころみられている。しかし陰にこもるところがなく、かなりあけっぴろげなそしてつよい作品である。(中略)日本では珍しい感触型の作家といえるかもしれない」と書かれた一文は、『新潮日本文学小辞典』(昭和43年、新潮社)の「石坂洋次郎」の項からとったものだが、執筆者は小松伸六である。小松は、文学全集、そして文庫の「解説」を数多く残し、石坂文学を語り続けたひとりでもあった。

昭和41年4月、『石坂洋次郎文庫』全20巻が新潮社から企画され、42年10月に完結した。文庫という名が付いているが、いわゆる現在の小さな文庫ではなく、個人全集20巻である。小松は4冊に「解説」(未見)を寄せている。

・『石坂洋次郎文庫 第5巻/青い山脈 ; 山のかなたに』(昭和41年1月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第11巻/陽のあたる坂道 ; 乳母車』(昭和42年1月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第13巻/あじさいの歌、寒い朝』(昭和41年7月刊)

・『石坂洋次郎文庫 第17巻/光る海 ; 辛抱づよく生きたS氏の像』(昭和41年1月刊)

石坂洋次郎文庫』刊行中の昭和41年11月、石坂洋次郎は第14回菊池寛賞を受賞する。その受賞パーティで、小松は石坂に初めて会ったという。

「石坂氏が昭和四十一年、「健全な常識に立ち、明快な作品を書き続けた功績」という理由で第十四回菊池寛賞をうけたとき、その受賞パーティが、新橋のあるホテルで行われた。私はそのとき、はじめて石坂さんにお目にかかったのであるが、この会で氏は津軽弁らしい、ちょっとなまりのある言葉で、受賞の感想をのべられていたのも印象的であった」(「解説」、『新潮日本文学27 石坂洋次郎集』)と書いている。その時小松は51歳、石坂は66歳のときであった。

その後小松伸六は、昭和43年4月に『カラー版日本文学全集30 石坂洋次郎』(河出書房新社)が刊行され「解説」を寄せる。同年9月には『現代日本の名作38 石坂洋次郎』(旺文社)に「解説」。翌44年12月には『新潮日本文学27 石坂洋次郎集』(新潮社)が刊行され、ここにも「解説」を書く。昭和54年11月刊の『新潮現代文学9 石坂洋次郎』(新潮社)にも「解説」を寄せている。小松が、文学全集に「解説」等を寄せた作家として一番多いと思われる。

なお、石坂洋二の文庫に寄せた小松の「解説」は、9冊確認できる。

石坂洋次郎あじさいの歌』(昭和37/1962年、新潮文庫

石坂洋次郎『河のほとりで』(昭和39/1964年、角川文庫)

石坂洋次郎『金の糸・銀の糸』(昭和42/1967年、角川文庫)

石坂洋次郎『風と樹と空と』(昭和43/1968年、角川文庫)

石坂洋次郎『光る海』(昭和44/1969年、新潮文庫

石坂洋次郎『陽のあたる坂道』(昭和46/1971年、講談社文庫)

石坂洋次郎寒い朝 他四篇』(昭和48/1973年、旺文社文庫

石坂洋次郎『花と果実』(昭和50/1975年、講談社文庫)

石坂洋次郎『颱風とざくろ』(下巻、昭和54/1979年、講談社文庫)

このうち、旺文社文庫の『寒い朝 他四篇』には、「人と文学」及び「作品の解説と鑑賞」と題して、20ページに及ぶ。興味深いのは、石坂と同郷の作家、太宰治葛西善蔵と対比して石坂の「人と文学」について書いていることである。なおこの文庫には、昭和37年、17歳のとき映画「寒い朝」に出演した、女優吉永小百合のエッセー「「寒い朝」の想い出」が収録されている。

また小松は、文庫の「解説」のなかで「私事」をよく語る人だが、『金の糸・銀の糸』では、この解説を書いたのは、「旅先のミュンヘンのウォーヌング(アパート)の屋根裏部屋」で書いたこと、『風と樹と空と』のなかでは、「わたくしは、ある私立大学の語学教師で、文学部に出講する。ほとんど女子学生である」と書き、『光る海』では、この小説が新聞に連載されたとき、「私の三女(当時立教女学院高二)のクラスでは、これをきりぬき」クラスメートにまわし読みをしていた話。『陽のあたる坂道』では、石坂の第14回菊池寛賞受賞のパーティのこと、『花と果実』では、舞台となった自由ケ丘の近くに住んでいる話など、実に興味深いことが記されている。

今日、石坂洋次郎の作品を書店で手にすることは難しくなったが、平成18年に『陽のあたる坂道』(角川文庫)が刊行され、昨年には、三浦雅士石坂洋次郎の逆襲』(講談社)出て、復活のきざしが見はじめた作家でもある。

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