小松伸六ノート㉔ 女性作家と小松伸六 その1

平林たい子円地文子

今回取り上げる、平林たい子円地文子の2人は同じ年の生れ、そして親友でもある。よって、1冊の文学全集には2人の名前が並ぶことも多く、小松伸六はそれらに解説を寄せており、最初に、この2人について触れたい。

 

平林たい子(ひらばやし たいこ、1905~1972

平林たい子は、文学に目覚めたころアナーキスト芸術家たちと交わり、作家活動をはじめる。のち、『文芸戦線』に発表したプロレタリア文学の一方の代表的作家となるが、第二次世界大戦後は急速に反共的傾斜を示した、稀有な作家である。

小松伸六が平林たい子との初体面は昭和35年の暮れであったらしい。翌年36年の『婦人生活』1月号に、小松伸六、石坂文子・吉行淳之介平林たい子との座談会「妻の恋愛は許されるか」が載っている。平林56歳、小松46歳ときである。小松は、あとにこの座談会に触れ、「私は一度、ある婦人雑誌の座談会で平林さんと一緒になる機会があったが、明るく、気さくで、正直な感じのする方で、作品からうける感じとはかなりちがっていた」と、昭和40年9月刊の『現代文学大系40 平林たい子・圓地文子集』(筑摩書房)の「人と文学」の最後に書いている。この「人と文学」は、平林の生い立ちから、大正15年頃からはじまった文学活動、そして昭和39年までに発表した作品を詳細に論じ、16ページに及ぶ解説である。また、昭和43年四月刊『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に「鑑賞」を寄せているが、これは未見である。

そして昭和47年、平林は68歳の生涯を閉じたが、小松は昭和54年2月刊の『日本女性の歴史』14巻に「平林たい子」を寄せ、サブタイトルに「体当たりで生きた炎の女」と書き、波乱に満ちた平林の一生を辿っている。

 

 

円地文子(えんち ふみこ、1905~1986

円地文子は、明治38年10月2日に上田万年(かずとし)の次女として生れ、昭和28年「ひもじい月日」で才能を開花させ、女の業,怨念を官能美の中に描いた作家で、戦後の女流文壇の第一人者として高く評価され、文化勲章も受賞している。

小松は、円地との初対面の印象を、「私は一度、出来たばかりで当時評判になっていたミカドというレストランに婦人雑誌の仕事で円地さんと同伴したことがある。静かな、小柄な和服姿、この女性から、あんなに激しい、性を中心とした小説が生まれるのだろうかと、ちょっと、とまどったものである。私がドイツ文学を専攻したというと、円地さんはドイツ演劇を話題にした」(『焔の盗人』解説、集英社文庫)と、書いている。またその時、三島由紀夫も来ていて円地と立ち話をしていたという。いつのことかはっきりしないが、昭和37年、東京赤坂に出来たレストランシアター「ミカド」のことと思われる。その時、円地は57歳、小松47歳であった。

小松は、昭和37年6月刊『サファイア版昭和文学全集15 円地文子幸田文』(角川書店)に収録された、「愛情の系譜」「女坂」の解説を詳しく書いている。そして、昭和40年9月刊の『現代文学大系40 平林たい子・圓地文子集』(筑摩書房)に「人と文学」を寄せるが、親友平林たい子との関係からはじまる解説を、16ページ以上に渡って書いている。収録された9作品の詳しい解説と、円地の生い立ちを語っている。また、昭和43年4月刊の『日本短編文学全集37 平林たい子円地文子有吉佐和子』(筑摩書房)に「鑑賞」を寄せているが未見である。

なお、円地文子の文庫の「解説」は、10冊を数える。

円地文子『私も燃えている』(昭和40年、角川文庫)

円地文子『女の繭』(昭和42年、角川文庫)

円地文子『鹿島綺譚』(昭和43年、角川文庫)

円地文子『雪燃え』(昭和55年、集英社文庫

円地文子『人形姉妹』(昭和57年、集英社文庫

円地文子『都の女』(昭和58年、集英社文庫

円地文子『離情』(昭和59年、集英社文庫

円地文子『男の銘柄』(昭和63年、集英社文庫

円地文子『私も燃えている』(昭和63年、集英社文庫

円地文子『焔の盗人』(昭和63年、集英社文庫

「昭和二十九年の晩秋のことである」とはじまる、伝統的な京都の茶道世界での男と女の出会いを描いた集英社文庫『雪燃え』では、やはり伝統的な街であった金沢の同時代沢を小松は回想している。また、アメリカに4年間留学していた女性を描いた集英社文庫『離情』では、小松自身の二度のアメリカ滞在に触れ、その時出会った留学生の印象のことを書いている。なお、集英社文庫版『私も燃えている』は、昭和40年の角川文庫の再録である。

円地文子は昭和61年11月死去、小松は、翌年の昭和62年『すばる』1月号に、追悼文「円地文子の一面」を書いている。「円地文子の絶対的魅力は、豊かな物語性にあるのだ」と断言する。小松は、昭和47年3月4日の『公明新聞』に「円地文子の文学」を書くなど、機会あるごとに円地作品の書評を、新聞、雑誌に書き続けていた。

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