小松伸六ノート㉓  大衆文学作家と小松伸六 その3

子母沢寛(しもざわ かん、1892~1968

 

子母澤寛は、小松伸六と同じ北海道生まれの作家で、厚田郡厚田村(現・石狩市)の出身。小松が残した『北海道新聞』の切り抜きに(掲載日不明)、「透徹した史眼「勝海舟」―子母澤寛氏の作品」がある。「私は東京生まれの人かと思っていた、氏が私と同郷の北海道は石狩の国・厚田の生れときいて、びっくりもし、また私の父と同じように、内地(本州)を逃げ出した『流れもの』の系譜に属するひとと知って一層親しみを感じていた」と書いている。子母澤とは面識もあったらしく、「子母澤さんから、お手紙をいただいたことも、しばしばある」とも書いている。この記事は、『子母澤寛全集』第10巻が出た、昭和37年ごろと思われる。

また小松は、昭和36年7月刊『傑作小説 特別号/子母澤寛小説読本』に「子母澤寛小論」を寄せ、子母澤寛の近作について論じている。最後に、「作者の目は、現在、江戸末期という変革期に向けられている」「転向しない人たちへの賛歌と、今はなき江戸風物祖誌への挽歌いというのが、子母澤氏」の心の底に流れる調音のようである」と書いている。この時子母澤は69歳、小松46歳の時であった。

子母澤寛の生前、勝小吉親子の物語である『おとこ鷹』(下巻、1964、昭和39年、新潮文庫)に「解説」を書き、「この作品は、一種のピカレスク・ロマン(悪漢小説)として楽しく読めるのではないかと思います」と書いている。

子母澤は、昭和43年に76歳で亡くなった。その直後に出た、『新選組始末記』(昭和44年、角川文庫)に小松は「解説」を書いている昭和3年にはじめて出した著書の文庫版で、古老たちの話を聞き集めたもの。小松は、「この作品は一等史料であり、とくに新選組を書く場合には、これを抜きにしては語れないことは、あらゆる作家が口をそろえて言っていることなのだ」と書く。この文庫は、『新選組始末記 決定版』(昭和57年、時代小説文庫・富士見書房)としても刊行されているが、角川版の文庫「解説」を、わずかに変えただけである。

昭和48年9月刊『子母澤寛全集』(全25巻、講談社)の月報9に「北方亡命者の抒情」を寄せているが、未見である。

  

船山馨(ふなやま かおる、1914~1981

 

船山馨(大衆小説作家というには問題があるかも知れないが)もまた、小松伸六と同じ北海道生まれ。札幌の出身だが、昭和41年に小松と共に北海道新聞文学賞第1回の選者になっており、「一年に一度、私は北海道新聞文学賞の選考委員会で、船山さん、八木義徳さんに会うのだが、船山さんはハッタリのある作品をひどくきらう。小説に正確なデッサンを要求する。つまり文学に対して誠実なのである」(「解説・『見知らぬ橋』をめぐって」)と書くほどの、親しみを持っていた作家でもあった。昭和43年8月4日に「釧路開基百年記念文化講演会」が釧路公民館で開催され、小松伸六、原田康子とともに、船山馨も参加し「歴史と文学」と題して講演(翌年の『釧路春秋』第3号に収録)しているから、そのころ親しく語り合う間柄だったと思われる。

小松は、昭和50年9月刊『船山馨小説全集』第12巻「見知らぬ橋(下)」(河出書房新社)に、「解説・『見知らぬ橋』をめぐって」を寄せる。北海道新聞文学賞の選考委員会の話以外に、「背が高く、色が白く、ロマンスグレーである。ちょっと異邦人のようにもみえた」などと、その印象を書いている。なおこの解説は㈶北海道文学館編『北の抒情 船山馨』(北海道新聞社、1996年)に再録されている。

小松は、船山馨の文庫本の「解説」を数多く書いている。確認できたのは下記の5冊。

・船山馨『お登勢』(昭和45年、角川文庫)

・船山馨『石狩平野』(下巻、昭和46年、新潮文庫

・船山馨『幕末の暗殺者』(昭和46年、角川文庫)

・船山馨『続・お登勢』(昭和52年、角川文庫)

・船山馨『見知らぬ橋』(下巻、昭和54年、角川文庫)

お登勢』の「解説」のなかでは、「私事にわたることを許してもらえば私(小松)も、作者と同じ道産子。釧路生れで、北海道僻地のことは多少わかる。とくに明治初年代の北辺、おそらく絶望的な荒れ地であった静内が、どんな荒涼たるものであったかは、読者の想像を絶するものがあるのではないか」と、物語の舞台となった静内とその時代に触れる。なお、平成16年12月刊『大衆小説・文庫〈解説〉名作選』(齋藤愼爾編、メタローグ)に、『お登勢』(角川文庫)の「解説」が収録されている。『石狩平野』の「解説」のなかでも、「私自身の好みからいえば、前半の明治篇のほうに愛着がある。それは、私が、作者と同じように北海道生まれで(通称道産子)、石狩の野は、私の北方の血にもつながる故郷であることからきているかもしれない」と書く。そして、『続・お登勢』の「解説」の最後に主人公たちの生き方に触れ、「明治の中期に広島県から北海道に渡ってきた私の父や母の苦労を考えないわけにはいかなかった」と書く。

船山馨が67歳で亡くなったのは昭和56年8月5日、春子夫人もまた疲労で同じ日に亡くなった。小松は8月7日の『北海道新聞』夕刊に追悼文「船山馨氏の人と文学」を寄せる。「眼鏡のうしろに澄んだ眼があった。やさしい眼差しであった」と書き、かつて文学を志した春子夫人の死にも触れている。

f:id:kozokotani:20210506103255j:plain