小松伸六ノート③ 小松伸六と『赤門文學』その二

第二次、第三次『赤門文學』と小松伸六

 

第二次「赤門文學」について、『日本近代文学大辞典』には「昭和23・6、11。全2冊。編集人近代文庫社内、赤門文学編集室。菊池靖と原子公平が旧同人とは別に再刊した。評論や翻訳に新鮮な魅力があり、荒正人白井健三郎、沢木欣一らが活躍した。」とある。

戦後の小松伸六は、昭和21年9月に金沢の第四高等学校(あとの金沢大学)にドイツ語講師として赴任、22年3月から地元の文芸誌『文華』に参加、深田久弥、森山啓、西義之、沢田欣一らと深く交わるようになる。その第二次「赤門文學」第1号の目次を見ると、第四高等学校(あとの金沢大学)の教師であった西義之、沢田欣一、内海伸平(小松伸六)らが参加しており、金沢から多くの寄稿者がいたことがわかる。第一次の編集者平田次三郎も寄稿している。

小松伸六は、昭和23年6月に刊行された第二次「赤門文學」第1号に、筆名・内海伸平として評論「横光利一と昭和文學史の問題」を寄せているが、その最初に、「まず 旧同人に一言」を書いており、第一次から第二次への全容を知ることができる。

「昭和十六年十二月、不幸にも太平洋戦争の侵略とともに発刊された旧赤門文学は爾来二年有余にして満天にはぢける鐵下の急霰近きを思わしめた十九年四月には日本出版会の命令により廃刊された。その間沈香たかず……の俗言どほり各人碌々として銷光、ニューフェス平田次三郎君一人を文壇におくりだしたのみであった。同人諸兄の多くはオブローモフハムレットの道をえらんだ。厩専之助と内海伸平がドンキホーテの道を歩んだ。」

と、戦死した旧同人たちのことなどを回想し、「いま、菊池、原子の両氏によりあらたに旧同人とは別個に赤門文學が再刊されんとするにあたり、ふたゝび旧同人の協力をお願いする。」と書いている。なお菊池靖なる人物は不明だが、原子公平は俳人で金沢の沢木欣一と親しく、その関係で第二次『赤門文學』を引き受けたのかも知れない。

なお、この「横光利一と昭和文學史の問題」は、内容は未見だが、2ヶ月前の金沢から出ていた『文華』2月号に小松伸六として一度発表されている。『赤門文學』に転載するにあたって、筆名を内海伸平とし、最初に「まず 旧同人に一言」を書き足し、内容を少し変えているようである。

そして、「内海伸平は五年ぶりに批評の筆をとった」と、評論「横光利一と昭和文學史の問題」を展開する。この論考は、今日横光利一の同時代の貴重な評論として、平成3年に神谷忠孝編『横光利一 (日本文学研究大成)』(国書刊行会)に収録されている。

f:id:kozokotani:20200712085735j:plain 第二次「赤門文學」第1号(昭和23年6月)

なお、第二次『赤門文學』第2号は、昭和23年11月に刊行されたが、小松伸六(内海伸平)の寄稿はなく、この2号を出して終刊してしまう。

そして、4年後の昭和27年11月、第三次『赤門文學』が編集人緒方君太郎なる人物の手で刊行されている。そのころ小松伸六は、金沢の『文華』を改題した『北国文化』の編集に携わっていたが、昭和27年12月発行の『北国文化』1月号/第81号に「赤門文学 復刊」と題した一文を寄せているので引用する。 

「戦後、平田次三郎、小松伸六、沢木欣一、加藤勝代、西義之などによって出された赤門文学は二度出したきりで悲壮な最期とげたが、こんど二十代の人たちによって東京から復刊された。新進気鋭青春熱気の人たちの同人誌なので編集に気合がかかっており、評論も耐新性にたえるざん新なら、小説もまた「ノンコンフオルミスト」など大変な問題をもった藤本真喜氏の創作がある。立派な、たのもしい文学予備隊である。紙面がないので、ただ紹介だけにしておきたい。」

しかし、小松伸六が期待した第三次『赤門文學』は1冊だしただけで終っている。内容などの詳細は不明だが、小松の積極的な関与はなかったようである。

追記・この第三次『赤門文学』への寄稿者は、大岡信が詩「地下水のように」および評論「エリュアール」を寄せ中西進金大中(北海道生まれの詩人)など、そうそうたる人々がいたようである。