小松伸六ノート① 平野謙と小松伸六


平野謙と小松伸六
小松伸六の最初の著書は、66歳の昭和57(1981)年2月に刊行した『美を見し人は―自殺作家の系譜―』(講談社)である。それまで、文芸評論家として膨大な仕事を残していたが、一冊も評論集が刊行されなかったのが不思議な評論家でもあった。その著書の「あとがき」に、小松はこんなことを記している。

「これは私のはじめての本であります。そして書きおろしのエッセイ(試論)でもあります。(中略)亡くなられた平野謙さんから、生前『文芸』誌上で、〝何千枚、いや何万枚も書いているかもしれない小松が一冊の本を出さないのはむしろ、時流を切る、すがすがしい存在だ〟という意味の、皮肉なおほめ?にあずかったことがあります。しかし私はそうした気持はさらさらなく、出していただくに値する本がなかったからです。」

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実に、謙遜な言葉を発している。小松はそのあと、東京帝国大学(現東京大学)での平野謙との出会いを、「再入学してきた平野さんとは二年間文学部の美学美術史で一緒に席をおいておりましたので、随分、氏からは影響を受けました。」と書いている。小松が東京帝国大学文学部美学美術史科に入学したのは昭和12(1937)年、22歳の時であった。同時に入学してきた平野謙(1907~1978)は、昭和5(1930)年に名古屋の八高から東京帝国大学文学部社会学科に入学するが1933年に中退。そして1937年、29歳の時に東京帝国大学文学部美学科に再入学し、1940年に32歳で卒業している。戦後の昭和21(1946)年、本多秋五埴谷雄高荒正人佐々木基一小田切秀雄山室静と雑誌『近代文学』を創刊している。
1978(昭和53)年に平野謙が亡くなっているが、小松の追悼文「平野さんのこと」(『週刊読書人』昭和53(1976)年4月17日号、あとに『週刊読書人 追悼文選』に収録)には、たびたび会った平野を回想し、「そして戦後、わたしは金沢で教師をしているころ、荒正人杉森久英、平田、平野四氏ら『近代文学』の同人の人たちの講演を金沢でしてもらった。荒さんたち三人は私の家に泊まった。」とある。

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これは昭和22(1947)年のことで、小松が編集していた『北國文化』でも平野謙らを囲んで鼎談をしたという。平田とは、戦前『赤門文学』の編集をしていた「平田次三郎」のことで、小松は戦前この誌に筆名・内海伸平で「太宰治論」(昭和17年9月)などを寄稿していたこともあり当然面識があった。この時の『近代文学』同人たちとの出会いは、彼等との関係を深めていったらしく、小松は、昭和25(1950)年12月刊の主に『近代文学』の同人たちの論考が載った荒正人編『昭和文學十二講』(改造社)に「戦争文學の展望」を寄せ、昭和26(1951)年8月号『近代文学』に「戦後作家論 藤原審爾素論」寄せている。

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小松の『美を見し人は―自殺作家の系譜―』(講談社)の「あとがき」には平野謙からどのような影響を受けたかは記されていないが、追悼文「平野さんのこと」には、昭和12年に発表した「文学に現代的性格その典型―高見順論」に強い影響を受けたように記されている。その後文芸評論家として歩むことになる小松にとって、意義ある平野謙との遭遇の時代であったのかも知れない。